青峰は火神が玄関を開けた時から彼の行動に違和感を感じていた。

「……いる」

玄関は空っぽで広々としているのに、まるでそこに"何か"がある様に左側に寄せ靴を脱ぐ。何だよ、火神……何も居ないじゃないか。オレが担がれたのか?青峰はそう疑い始めた。そしてシンと静まった廊下をズカズカと進む火神の後に軽く挨拶し、彼を追い掛ける。

リビングの灯りが廊下へと伸びている。火神はピタリと止まると、面倒臭そうに「……何だよ」と声を発する。青峰が「何も言ってねぇよ」と言うより先に、火神は誰も居ないリビングへと入って行く。すると何か1人で見えない誰かと会話を始める。拳を握り、怒鳴り声を上げている。「出ていけ」だの「ふざけんな」だの物騒な事を口にしている。目の前で始まったエア喧嘩に青峰は混乱する。

リビングから出てきた火神の顔はゾッとする程に不気味だった。リビングの灯りが逆光を生み、目が据えて感情が失われていた。怒りと恐怖が頂点に達しようとした火神は、まるで化物へと成り果てていた。

フラフラと玄関へと向かうと、ゴルフクラブを握り締めていた。さっぱり意味が判らない青峰は慌てて火神の前に立ち、停止を促す。

「何してんだよ火神!おかしいぞお前!!」

しかしそれは無情にも突っぱねられる。そうして彼は、誰も座っていない木製の椅子に向かってクラブを降り下ろし始めた。無言で、無表情で、何度も何度も何度でも……。

――異常だ。

青峰は後退る。すぐそこにある玄関から、この一人の少年が造り出した奇怪な世界を飛び出したくなった。一歩、また一歩と後ろ向きに歩を進める。その間にも火神はゴルフクラブを降り下ろしてはまた掲げ、降り下ろす。ガツン、ガツンと鈍い音が続く。

青峰は癖になりつつある舌打ちで自分を勇気付けると、狂った火神を止めるのは自分しか居ないんだと、急いで彼の手首を掴む。

――そうして、現在に至ったのだ。

火神は呆然と、目の前のズタズタになった椅子を眺める。――彼は全ての真実を、今やっと理解出来た。

――そうだ、元から誰も居なかったんだ。この奇怪な家族は、全ては自分が造り出した幻にしか過ぎなかったんだ……――

……………

どこからが火神の妄想だったかと言うと、DMと云うきっかけから既に幻だったのだ。火神の脳は、プロローグに"空想のDM"を受け取らせる事で、突如現れた家族をすんなりと受け入れさせた。

情報が脳を通り記憶を司る海馬へと届くその道筋の何処かで、偽りの家族を何らかの手段で反映させてしまった。そうして彼は理想的な家族を造り出し、そして迎え入れた。夢の世界へ身を置くのと何も変わらない。現実には無いモノを脳は錯覚させ続けた。自身で作ったご飯を、さも誰かが作ってくれたかの様に食す。

しかし、脳の処理は全てを網羅出来ない。やがて必然的に追い付かなくなる。部屋が変わって居なかったのもその一つである。それぞれの家族にどの様な部屋が望ましいのか、想像力が枯渇していた火神は当てはめる事が出来なかった。

処理出来ない情報は現実をねじ曲げる事が出来ない。だからドアを開いても、そこには幻は出現せずに"そのままの光景"しか見えない。皮肉にも、その"そのままの光景"が、彼を混乱させた大きな要因である。

今日も昨夜からの疲れがピークに達していた火神の脳は、あの時父親が娘に暴力を奮う光景を受け入れたがらなかった。だから彼の脳は幻を造り出さなかった。

無意識に自己を庇った筈なのに、意識的な自身を混乱させその結果、事態を悪い方向に走らせた。その混沌は火神を苦しめ狂わせた。

妄想の世界に現実が入り込み、ちぐはぐな世界を行ったり来たりする負担は恐怖を錯覚させ、やがては怒りへと変化する。

……………


そして、その無意識の造り出した幻と、現実のから解放された火神は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣き出した。青峰は仕方なく頭を雑にポンポンと叩く。

「――もう家族なんて要らねぇから……!!寂しくても我慢するから……!!」

必死に顔面を濡らし、わんわんと泣き続ける友人の背中を優しく叩く青峰。どうしていいか判らない彼は優しく声を掛ける。

「――寂しくなったら呼べよ」

そう告げると気恥ずかしくなった青峰は頭を掻く。こう弱音を吐かれると、どうしたらいいか判らなくなる。そんな風に気を遣おうとオロオロする青峰に気付く事無く、火神は泣き続けた。

……………

「父が21時までには帰宅しろ、と言うんです」

黒子は肩を落とす。部活が終わるのが20時半だ。寄り道しなければ充分に帰れるだろう。ただ、高校生である彼には寄り道とは甘美なモノである。コミュニケーションの形成にも必要な時間の筈なのに、彼の父親はそれを容赦なく奪う。

「えー!?今日、本屋行きたかったのにー!!」

先輩である小金井が自身の猫口を尖らせる。小金井は「すみません」と謝罪をする黒子にいいから、大丈夫だから、と優しく声を掛けた。そして頭ひとつ飛び出た背の高い後輩へジトッと伏した眼差しを向ける。

「火神ィ……お前はいいよなぁ、うるさい家族が居なくて」

しかし、その背の高い後輩は何も喋らずに目線を下げたままだった。ボーッと宙へ空視線を向ける彼からは悲壮感すら感じた。実際、火神は自分の身に起きたあの奇妙な日々を思い出してぼんやりしていた。

小金井は慌てて「ごめんな火神!」と謝る。大方、彼は不躾な質問で相手を傷付けてしまったと思ったのだろう。しかし、小金井の心配も余所に火神はいつもと変わらない勝ち気の強い口調で言葉を始めた。

「家族は……当分いい、ッスです」

慣れない敬語を無理に遣う。そしてヘラヘラと口元だけの下手な笑みを向ける。そんな火神の調子に小金井はキョトンとした。

「そ……そうなの?」

キュッとバッシュを擦ると彼は再度ぎこちない笑顔を向ける。

「……寂しくなったら、すぐ呼べる友達が居るから大丈夫、ッス」

――あの時、わんわん泣きながらも火神は聞いていたのだ。青峰の野郎には似合わない気遣いの台詞を。青峰は偶然に近いとは言え、偽りの世界から自分を救った。『寂しくなったら呼べ』――それが偽りの言葉であったとしても火神は嬉しかった。

あの時の弱さをいつか馬鹿にされる日が来るかもしれない。いや、やっぱ来ないかもしれない……。その時はこちらもあの似合わない優しさを武器にしよう。きっと彼は顔を紅くしてすっとぼけるだろう。

これが漫画やアニメの類いだったら、遠くでその台詞を吐いた人物がクシャミをしているのだろう。しかし、火神にはソレを確かめる術は持ち合わせてはいなかった。