「――……おはよ」

 夜が明ければ朝が来る。
 朝が来れば皆が集まる。

 寝不足で疲れた顔をした火神がリビングに顔を出した頃には、全員が朝食に手を付けていた。昨日までの賑やかさとは打って変わって各人が使う食器の触れ合う音しか聞こえない。勿論火神に返事を返す人物も居ない。

「昨日はどこ行ってたんだよ……」

「昨日って何?」

 野菜ジュースを喉に流し込む、ポニーテールの少女へ問い質した火神は、その返事の呆気なさにカチンとする。

「昨日は昨日だろ、お前オレの部屋に……――」

 そう言って火神は立ち尽くす。それは両親が自分を注視しているのに気付いたからだ。

「座って食べなさい大我」

 正面の母親が魚の切身を口にしながら火神へ命令する。その冷たい言い方へ思わず拳を握る。

「……いらねぇよ、買って食うから」

 バツが悪くなった火神は来たばかりのリビングから逃げたい心境を悟られないように脱出する。背中越しに感じる視線に心臓がバクバクした。声を掛けられたら肩が跳ねてしまうだろう。しかし、静かなリビングは静かなまま過ごす。食器の音と咀嚼音だけが小さく響く。

 廊下に出た彼は不安な考えに駈られた。

 ――このまま自分の居場所が侵食されていくんじゃあないか?

 緩んだ拳を再度握り直すと、ドカドカとわざと足音を鳴らし歩いた。端から見たら"反抗期"で済まされる光景だろう。当人からしたら不気味で正体不明な非現実……それさえも客観的に見れば日常の一部だった。


 ………………


 今日も学校から帰ると夜の9時を回っていた。「ただいま」も言わず、リビングに寄る事もなく自室へと足を運ぶ。広く感じたマンションも、今はこの部屋しか自分の居場所が無い……そう思うと途端に窮屈で狭く感じる。

 胸に抱えた大量のハンバーガーを乱雑に開け、食べ始める。無言で、一個二個三個と包み紙が増えていく。喉が渇けばついでに買った牛乳をパックのまま、喉へ流した。

 口元を拭うと、四個目の包みへ手を伸ばす。……しかし、それをバーガーチェーンのロゴが入った袋へ戻すとベッドに横たわる。制服のまま、うつ伏せになりボーッとする。

 昨夜満足に睡眠を取れなかったせいかウトウトしてくる。もう何もかもが面倒になる程の甘い睡魔が火神を包もうとする。

 ――トントン

 ドアがノックされる。体勢を整えるのが面倒な火神は首を僅かに動かし、そちらに目線を向ける。何も返事を返さない部屋の主に痺れを切らしたのか、ノブが回されゆっくりとドアが開く。

「……帰ってたんだ」

 ポニーテールを下ろし、鎖骨の辺りまである黒髪をほのかに濡らした少女が部屋に入ってくる。素足がフローリングに貼り付き、離れる音がする。段々とこちらに近付いてくる。幽霊では無さそうだ、だって足がある。古くさい迷信が頭をよぎる。

「……ねぇ、今暇?」

 相変わらずのませた口調で質問される。しかし、火神は答えない。もうこの理解出来ない偽りの家族に関わりたくないのだ。キャンセルって、出来るのか……?

「今暇かって聞いてるんだけど!! シカトすんなよ!!」

 耳障りな高い声が部屋に響く。幼さが残る甲高い声は荒い口調と合わさるとちぐはぐで違和感を感じる。

「……怒鳴るなよ」

 眉間に皺を寄せ、唯一の居場所まで侵入されそうになるイライラを逃そうと両手に拳を握る。学業と部活で体力をギリギリまで使ってきたのに休まらない。

「これだから喧しい女は嫌いなんだよ」

 喧嘩を売るつもりは無いが、気付いたら相手が逆上しそうな台詞を吐いていた。ただでさえデリカシーが欠けている火神は、こんな事態になれば女心を察する余裕も無い。

 少女から目を離し、眠りに再び身を置こうとした火神に予想外の刺激が与えられた。

「………っ、なっ!!」

 首裏を柔らかい舌が這う。くすぐったいような快感に背筋が痺れる。慌てて身体を捻り上体を起こすと、のし掛かっていた少女はずり落ちる。

「なっに、してんだ!!」

 不測の事態に舌が上手く回らない。心臓がバクバクして眠気はどこかに吹き飛んでしまった。

「――続きしてよ」

「する訳ねぇだろ!!」

 ベッドの端に座る少女から少しでも遠ざかろうとして、自身も反対側へと寄る。

「今、お父さんもお母さんも居ないよ?」

 そういう問題でもねぇんだ、と言いたい所だが新しい問題点をぶつけた所で結局何が言いたいのか判らなくなりそうだ。だから火神はそれなりに筋道通った予測で相手をたしなめようとした。

「……どっちか帰ってきたらどうすんだよ」

 そして立ち上がり少女が身を置いているベッドから離れ、頭をわしゃわしゃ掻く。脳内では忙しなく理性と本能が議論している。首を襲った快感が今になってジンワリと性欲を掻き立てる。

 ――でも、昨夜のあのドア越しの視線が離れない。突き刺さる不気味な視線を感じた火神はバッ、とドアを見る。しかし自室のドアはピタリと閉じられていた。思い過ごしや勘違いの類いだったようだ。

「大丈夫だよ、勉強教えてたって言えば」

「……教わってた、じゃなくてか?」

 ベッドが軋む。向こうが僅かに体重を掛けて立ち上がったらしい。数歩の足音が相手との距離が縮まっている事を教えてくれる。

「だって、馬鹿じゃん」

 そこに関しては何も言えない。ぐうの音も出ない火神は両手で頭を掻き乱しながら口元を尖らせる。生まれ変わったら頭良くなろう、と密かに決心すると同時に、火神大我で居る内は勉学に諦めを付けた。
「どうやったらこんな身体になるの?」

 華奢な指が、火神のズボンからはみ出したワイシャツを捲り、彼の年の割りにはバッキリと割れた腹筋を露見させる。普段なら裸を見せるのに羞恥は無いが、こういう女性とのマンツーマンなシチュエーションに慣れていない火神は緊張する。

「鍛えてんだよ……それなりに」

 徐々にシャツを捲り、とうとう胸筋まで露出させた相手の右手を掴んで下ろす。華奢な腕が折れそうでハッとする。細っこいあの黒子だってここまで指が回らないだろう。慌てたように腕から手を離す。

「……出ていけよ、何回も言わせんな」

 無人になったベッドに再度腰掛ける。両手で顔を覆うと、疲弊からため息が出る。自宅に居てこんなに疲れたのは生まれて初めてかもしれない。

「……分かった、じゃあね」

 少女は元気の無い声で拗ねた感情を表していた。その声色を聞き、少しだけ罪悪感が残った火神は顔を上げて少女を呼び止めようとしたが、既にドアが閉まり少女の残り香だけが部屋に靡いた。

 ため息を付いて、ハンバーガーの包みを抱えてドアノブに手を掛けようとした瞬間の事だった。

 ――ドンッ

 鈍い音が廊下から聞こえた。フローリングに何かが打ち付けられた。同時に男性の咆哮が廊下に響いた。

『お前は何をしていたんだ! あそこで!! 何で今、あそこから出てきた!!』

 火神の身体が小さく跳ねた。あそこって……オレの、この部屋の事か!? 掴んだ手を離し、ドア越しに耳を澄ませる。

『だったら何!? 別に問題ないじゃん!! 相手はお兄ちゃんだよ!? 変な事考えるのやめてよキモい!!』

「よく言うよ……」

 さっきまでのあの、幼いながら大胆なアプローチを思い出し、呟く。誰にでもキモいを言い放つ"反抗期独特の気強さ"をビシビシと感じる。――しかし、事態は思わぬ方向へと進みだした。

『誰に向かって口を聞いているんだ!!』

 バシッと言う破裂音がした。息を飲んだ火神は袋を足元に落とした。バサッと乾いた音と少女の悲鳴が重なる。


 ………………


 少女の啜り泣く声に、同じリズムで何かが擦れる音……。男性の深いため息。か細く泣きながら『ごめんなさい』を繰り返す嗚咽に、胸元がムカムカして来る。

 今すぐ飛び出して父親を名乗る男性を殴るのは簡単だ。身長だってタッパだって、火神の方がデカイ。どこにでもいる腹が出てきた中肉中背の男性をノックアウトする位雑作もないだろう。しかし、火神はその扉を開けられないでいた。

 理由はふたつ。まず、扉の向こうに広がる光景を受け入れたくないのだ。

 怖い。見るのが、怖い。少女を暴力で支配する男性を、見るのが怖い、怖い怖い、怖い……。普段なら血気盛んな青臭い正義感で飛び出していただろう。でも、今は何故か怖いのだ。火神は気付いていないが、その感覚は本能が引き出した、弱さに直結したモノだろう。家庭内DV、それは16歳の少年が抱えるにしては重すぎる光景だ。

 ふたつめは、何もないのが怖い。開けた瞬間に忽然と姿を消す。気配や、恐らく髪の毛一本すらこの世に存在していなかったかの如く姿を消されるのが怖い。それは奇妙な世界へ足を踏み出す恐怖に似ている。

 ――そこに居ても、居なくても、火神に与えるダメージは大きい。だからこそ躊躇してしまう。こうして迷っている間にも少女の泣き声は絶える事がない。犯されているのだ……彼女が自分の父親だと言い張る男性に。吐き気が込み上げる。

 そして火神は決心して扉を開けた。目を瞑り、腕を押し出す。足元の紙袋を蹴り飛ばしハンバーガーが散らばる。

「――な、んだ……?」

 そこには何もない。啜り泣き、男性を受け入れる少女の姿は無い。代わりに、明るいリビングから3人分の笑い声が聞こえた。

 リビングへと足を運ぶと、自分以外の家族がテレビを見て談笑していた。先程まで廊下で嗚咽を漏らし泣いていた少女は手を叩き、芸人のくだらないコントに爆笑していた。

「……何してんだ? お前ら」

 頭が混乱する。何が現実で何が幻想なのか、間違い探しに閉じ込められたみたいだ。

「――お前、さっきまで、泣いてただろ。そこのオッサンに、あぁ……えっと、その」

「………は? オッサンって、父親の顔も忘れたの?」

 先程まで父親に犯されていた筈の妹はテレビに映る芸人を指差し下品な笑いを上げる。

「……そうみたいだ」

 頭を抱え、家族に背を向けフラリとリビングを後にする。テレビから聞こえる芸能人の笑い声と、3人の楽しそうな笑い声が合わさり、まるで巨大な人間が自分を馬鹿にしているようだった。

 リビングからはテレビの喧騒な音が漏れ出す。自分の部屋のドアを開けようと手を伸ばしたその時、彼はある事に気付く。


 あれ? 何でオレ、リモコンなんて握ってんだ……?


 火神がリビングから聞こえてくるのが賑やかなバラエティー番組の音だけになっているのに気付くのに時間は掛からなかった。

 消えた、また、アイツらが消えた。どうなってんだ? 何が起きてんだ!? オレの家だぞ!!

 プツン、と頭の中で何かが切れた。突然に、ずっと抑えていた限界が来たようだ……。

「――っうあ"あ"あ"あああぁぁぁぁぁ!!!!」

 喉が腫れそうな程の咆哮を響かせながら、フローリングにリモコンを叩き付ける。ガシャッと破壊音と共に電池が飛び出す。

 叫んだ反動からか肩で息を繰り返すと、もっと叫びたい意思をグッと堪えて、その怒りを拳に変えて壁にぶつける。ドンッと鈍い音が廊下に響き、白い壁に僅かながらへこみ傷が出来た。右の拳がジンジンする、熱はあるが骨は大丈夫だろう……。

 その右手を制服のポケットに突っ込み、携帯が入っているのを確認すると、恐怖心を悟られたくない虚栄心から壁を蹴り玄関へ向かった。