エレベーターをいつも通りに降り、エントランスを通る。一昨日、ここから全てが始まったんだ。忌々しくポストを睨むと黒い長封筒がぴろんと顔を覗かせていた。

「またかよ!」

 その封筒を見た瞬間に怒りが沸いた。乱暴にポストへ近付くと強引にソレを剥ぎ取る。表には白く整ったフォントで『お買い上げありがとうございます』とだけ記されている。今までとは違う文面にポカンとする。それは予想を突き抜けた展開だった。ビリッと封を破き、中にある紙を引っ張り出す。

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お買い上げありがとうございます

 ご希望の通りに貴方の家族を用意させて戴きました。お気に召したでしょうか?

 料金は月末に日割りで請求致します。請求書を送付致しますので届き次第速やかに振込をお願い致します。

料金(プランC)

1500円/日

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「何だこりゃ……?」

 と、なるとあの朝に見た女性らはこの紙に記された"商品"と言う事になるのか?そして驚くべきはその料金の安さだった。自分の食費より安いレンタル料金に胡散臭さを感じる。やはり担がれているのか……?

 だが母親役の女性は火神しか知らない考査の順位を知っていた。不可能では無い。学校へ問い合わせれば良いだけの話だろう。しかしプライバシー厳守の今、そんな事をホイホイ他人に教える教師が居るのだろうか……? 居たら大問題だ。

「……買っちまったのか、家族を」

 くしゃり、と紙を潰しエレベーターの方角を見る。朝なのに呼び出される事のないエレベーターは、ドアを開けたまま火神が降りた後からずっと動かないでその場にいた。


 ………………


「お兄ちゃんはさ、ダイエットとか無縁なワケ?」

「るせーよ、代謝が良いんだよ。お前とは違ってな」

「何それムカつく! 馬鹿兄貴!!」

「ご飯中に喧嘩しない!!」

「何だ? リサはダイエット中か?」

 四角い食卓に4人の人物が座り、それぞれが食事を口にする。ありふれた家族団欒の光景である。

 ただ、火神大我からすれば右手に居る父親は全然知らない人物だったし、左手と正面に居る母親と妹は戸籍上にすら存在しない。偽りだ。イミテーションでしかない。しかし、それでも自分以外の三人は"家族"を演じきっている。

 最初は火神も戸惑ったが、1週間も毎日彼らに付き合っていれば、当たり前の家族のような錯覚へ陥っていた。その位に3人はリアルだったのだ。本当にこれが演技なら賞されるべきだ。

 家に帰れば明かりが付き、温かいご飯が用意されている。腹が膨れれば心地よい温度に設定されたお風呂が沸いている。妹が匂いの強い入浴剤を入れていた事だってある。風呂から上がる頃にはそれぞれがそれぞれの部屋に姿を消す。朝になれば母親が起こしに来るし、朝ご飯も用意してある。弁当は、ややこしい事になるから断った。いきなり家族が出来たなんて、そんな事は誰にも言えなかった。

 お金で買ったごっこ遊びだとしても、楽しかった。胸の奥がムズムズした。どれだけ強がっていても、所詮は高校生でしかない火神は本質的な部分では温かい家庭に憧れていた。

 確かに自由では無くなったが、くすぐったい何かが身体を満たす。背後で寄り沿っていた孤独は何処かへ行ってしまったようだ。


 ………………


「相談があるんだけど……」

 神妙な顔をし、妹である人物が火神の部屋を訪れた。ベッドへ横になり雑誌を眺めていた火神は、上体を起こし「何だよ、急に」と少女に声を掛ける。

「そっち、いい?」

 話が長くなるのだろうか、ベッドを指差す。少女はずっと目を伏せ合わせようとしない。

「あぁ、良いけど?」

 場所を空けてやると、横にちょこんと座る。風呂上がりなのだろうか清潔感のある甘い香りが鼻をくすぐる。濡れた髪の毛をポニーテールに結び、うなじの後れ毛に色気を感じる。薄手の淡いキャミソールから成長途中の胸元がチラリと見える、ホットパンツから長く細い足が真っ直ぐ伸びる。普段は失礼で騒がしい癖に、こう大人しくされると可愛い顔立ちが際立つ。

「友達がね……ユリカって言うんだけど……彼氏が出来たんだって」

「恋人くらい出来んだろ、中学生なら」

 ――何だよ、恋の相談かよ……。その話題は火神の苦手とする分野だった。正直何も言えない分鬱陶しさを感じたが、健気な妹役の為に優しい兄の振りをする。

「お兄ちゃんは? 彼女居るの?」

「そんな暇あったらボールいじってるよ」

 相手の濡れた髪の毛を強引に撫で回す。バスケに夢中な火神は恋人が居なくても問題は無いし、きっとバスケが恋人みたいなモノだ。モテない訳では無いが、女と縁はない。

「だよね、居るわけ無いよね」

 ホッと胸を撫で下ろす失礼極まりない妹のポニーテールを軽く引っ張る。火神なりの些細な反撃だ。

「で、それがどうしたんだよ。お前の友達が彼氏持ちになって何が困るんだ?」

「――それが、ね? シタんだって……」

「何だ? キスか?」

「ううん、セックス」

 中学生の口から飛び出したエロチシズムな言葉に火神は硬直する。

「シタ事、ある……?」

「……ねぇよ」

 頬杖を付きぶっきらぼうに答えると、会話が途切れ奇妙な空気が流れる。隣から漂う香りにほんの少し欲情する。

「――私も、シタいの」

「ならまず相手探せよ」

 沈黙する度に気まずくなっていく。相手がモジモジと自身の手先を遊ばせ始める。

「……部屋に戻れ」

 むっすりした声色で退室を促すが、少女は動かない。それどころか、火神のTシャツの裾を引っ張り始める始末だ。鼓動が早くなる。下半身がハーフパンツを盛り上げているが、隠す気も起きない。それに気付いたのか気付かないのか、少女は恥ずかしそうに口を開く。

「……お兄ちゃんとなら、いいよ」

 消えそうな声が聞こえる。何だか火神はその言葉をずっと待っていた気がした。理由は判らないが何時かはこうなるのだと予感はしていた。巧妙な家族ごっことは言え、火神と少女は他人だ……。

 髪を結わえたゴムを外してやり、優しく押し倒す。二人分の負荷にベッドが軋む。胸の前で組んだ少女の両手を解し胸元へ指を滑らせる。

 頭の中では必死に『止めろ』と警笛を鳴らしていた。しかし身体は動きを止めない。――これは近親相姦……タブーとされているニ親等同士の性行に分類されるのか。そんなギリギリのインモラルが尚更に性欲を増幅させる。

 頭の方からピリッとした視線を感じた。その先にある自室の出入口を見ると、ほんの少し開いていた。本来なら暗い廊下が見える筈だが、そこに見えたモノに火神は恐怖を覚え、身を固めた。

 ドアの隙間から4つの目が覗いていた。その目は感情が無く、ただぼんやりと二人を見据えている。ドアの向こう、兄妹が一線を越えようとする様子を、両親は無表情で眺めている。異常な光景だ……背中に汗が伝う。

「駄目だ、コレは。止めよう」

 喉を必死に絞り、それだけをやっとの思いで口にする。それと同時に扉の向こうの影も姿を消す。何の音も立てずに、横へスライドする。その動きさえも不気味で不安を煽る。

「部屋に戻れよ」

 自分の下に組み敷かれた少女にそう告げ、ふとひとつの疑問が湧く。何で今まで気付かなかったのだろう……。

「お前さ、部屋って……どうなってんだ?」

「え……何? 見たいの?」

 訝しげに眉を潜め「汚いからやだぁ」と呟く妹。

「良いから見せろよ、今すぐ」

 火神は肩を掴み、神妙な顔で命令する。先に湧いた疑問を解消しなければならないような気がした。

「わかったから……片付けるから少し待っててよ」

 唇を尖らせた妹はブーブー文句を言いながら火神の部屋を出ていく。そして隣にある部屋に入っていく。ガチャリ、とノブが回り扉が閉まる音が廊下へ響く。

 ――あの部屋には火神の父親の荷物が梱包されたまま置いてある筈だった。一緒に暮らす予定で詰めた私物が、結局同居がおじゃんになった為に封を開けないまま置いてある。果たしてそこが妹の部屋になったなら、それらの荷物はどう処理したのだろうか……。廊下に出た火神は腕を組み壁に寄り掛かり、片付けを待つ。待ちきれない火神の足先がトン、トンと音を立てる。

「いいよ、入っても」

 思いのほか早い……。木製のドア越しに許可の合図が聞こえた。ノックもせずにガチャリとノブを回し、扉を開ける。

「……何だよ、コレ」

 そこに広がる光景に火神は酷く混乱する。握ったノブの冷たさがコレが現実であると認識させる。

 その部屋は"何も変わっていなかった"のだ。電気も付いていない薄暗いその部屋は、父親の荷物である段ボールが積み重なり、他には火神の使わなくなった私物やら、来客用の折り畳みベッドが置いてある。倉庫として使用していた部屋は、倉庫のままで存在していた。

「……お前、こんな部屋で生活してんのか?」

 部屋の主に声を掛けるが、返事は無い。「オイ……」とその部屋の内部を見渡すが、部屋に居るはずの人物は煙の様に消えてしまった。顔面が青ざめる。

「隠れてるなら出てこいよ!!」

 恐怖から口調が荒くなる。しかし誰も答えない。段ボールの裏も、クローゼットの中も、隠れられそうな場所は全て見た。……しかし何者もそこには存在して居ない。

 火神は踵を返すと、両親の部屋へと足を進ませる。扉の前に立つと、室内から声が漏れだしていた。

『あの子らは兄弟よ! 私の息子と娘なの!』

『じゃあどうしろって言うんだ! 何でもっと早く気付かないんだ!!』

 くぐもってはいるが、二人分の騒々しい声が聞こえる。会話の内容からして先ほどの事だろう。

 やはり見ていたんだ。自分達の子供がいかがわしい関係になろうとしたその瞬間を。取り乱す事無く、何の感情も読み取れない程の表情で……。声も掛けずにただ傍観していたと言うのか。

 こちらもノックを省き、ノブを回す。そして目を瞑り、ドアを引く。怒られても良い。問い質されても構わない……どうか、両親役の二人が、目を丸くして自分を見詰めていますように……。

 ギュッと瞑った目を開け、内部を確認する。

 ――やっぱりか……。その部屋も結局"何も変化していなかった"。先日まで居候の外人が寝泊まりしていた部屋のまま、明かりも付いていない。開いたカーテンから月明かりが部屋の内部をうっすらと照らし出していた。輪郭が朧気なベッドとテーブル。クローゼットは開けられたまま、中にはほとんど何も入っていない。

 妹の部屋と同じだ。開けるまで確かにそこに居たはずなのに、気配を感じたのに――誰も居ない。喧嘩をしていた声の主は、姿を見せない。

「――どうなってんだよ! コレは一体。……あいつら、どこ行ったんだよ!!」

 切なく絞り出された声が、誰も居ない廊下へ響き、消えた。そして賑やかだったはずのこのマンションの一室に、再び静寂が孤独を引き連れやって来る。

 誰も居なくなった。元より誰も居なかったのかもしれない。頭を抱え、その場に項垂れた火神は状況が整理出来ずに混乱にただ身を任せるしか無かった。