火神大我は一人暮らしだ。それに関して不自由は無いと思っている。家に帰ってご飯を作り、テレビを見ながら一人で食べ、シャワーで一日の汚れを落とし火照った身体のまま軽いストレッチをし、就寝する。

 変わらない。
 何も変わらない。
 それが彼の日常だ。

 学校へ行けば下らない事で仲間と笑い、生き甲斐とも言えるスポーツに興じ集団生活の一員と課す。


 ………………


「母親が五月蝿くてさ……こんな成績じゃお前は何の為に学校行ってんだ! って」

 部活仲間の降旗が肩を竦める。彼は定期考査の順位を30位程落としたらしい。それでも彼は学年の中間には居るし、下から数えた方が早い火神からすれば十分な順位である。

「……ボクもです、苦い顔をされました。ただでさえ帰りが遅いのを許してるのにって……」

 黒子も消えそうな声で溜め息混じりの愚痴を溢す。他の同学年メンバーも、家族への愚痴を口々にする。

 火神はソレを黙って聞いていた。考査の結果なんて丸めて捨てた。本当は少しだけ順位が上がっていた。しかし彼の家にはそれを褒める人間も、それでも低い順位を咎める人間も居ない。

「……火神は、お前は良いよなぁ……五月蝿い親が居なくて」

「そんなモンか?」

 手を首の後ろに回し、壁に寄り掛かる。そう言えば父親の声を随分と聞いていない。今、彼と父親を繋ぐのは通帳に振り込まれる金だけだ。それだって、父親が本当に息子の事を思いながら振り込んでいるのだろうか……。

「家族か……」

 妹が欲しい、母親が欲しい、いつも傍にいる父親が欲しい。無い物ねだりだ。居たら居たで、きっと彼らにまじって疎ましさを口にするに決まっている。だけど、毎日一人で時間を過ごし、一人で自身を管理し、一人で食べ、一人で寝る生活は16歳の少年には少しばかり酷であった。

「……いや、気楽だぜ?」そんな仕方ない話を笑顔で吹き飛ばそうと、火神は強がりを口にする。カントクがメガホンで自分達を呼ぶ。練習が再開する様だ。各人がそれぞれの練習へと精を出す。バッシュが床を擦る音を聞きながら、火神はぼんやり考える。

 ……家族って、何だ?


 ………………


 その帰り道は突然の雨が身体を濡らした。マンションのエントランスへ逃げ込み、身体に付いた水滴を払う。そしてエレベーターの横に備え付けられているポストを確認する。無造作に突っ込まれたチラシ、宅配ピザの写真が食欲をそそる。あとは自動引き落としの公共料金の明細やら学習教材のDMを全て雑に引っ張り出す。そんな時、足下に一枚の長封筒がヒラリと落ちる。見てくれ、とばかりに火神のスニーカーに張り付く。それは全面が真っ黒で、様変わりした封筒だ。直接投げ込まれたのか、宛先も切手も、差出人すら無い。しかし、表には白いフォントではっきりこう記されていた。

『家族、売ります』

 それを見た火神は心臓に圧迫感を感じた。背後に強い視線を感じ、思わず振り返るがそこに見えるのは明るく綺麗なエントランスと、自動ドアの向こうに広がる闇夜だけだった。


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家族、売ります

 寂しい貴方にとっておきの家族を紹介致します。

 強がっていても独りは寂しいものです。そんな貴方に、家族を派遣致します。老若男女全ての人材を取り揃えています。お気軽にお問い合わせ下さい。

▽以下の葉書を切り取り、必要事項を明記しポストへ投函して下さい。

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「ギャグにしてはセンスあんじゃねぇか……」

 火神はこんなのどうせ誰かの悪戯だ、と封筒ごと丸めて放り投げる。弧を描いた案内は離れた場所にあったゴミ箱へシュートされる。タイムリー過ぎるDMに少しだけ背筋が寒くなるが、だからと言って絶対に有り得ない話では無い。奇跡的な確率で今日と言う日にビンゴしただけだ。

「くだらねぇ、家族買ってどうすんだよ。人生ゲームじゃねぇんだぞ」

 冷蔵庫を開け、パックの牛乳をそのまま口へ流し込む。晩ご飯は何を作ろうか材料と相談する内にゴミ箱へ棄てられた奇妙な案内の事などすっかり忘れ去っていた。

 ――忘れていた方が良かったのかもしれない。これから彼に降りかかる奇妙な出来事を考えたら。


 ………………


 次の日の帰り道も、昨日と同じく突然の雨に濡れる。天気予報によると降水確率は10%以下の筈だ。小さくくしゃみをし、鼻を啜る。夏場の天気は崩れやすい、仕方ない事だ。スポーツバッグから汗が染み込んだタオルを取り出し、濡れた箇所を雑に拭く。

 そうしてエレベーターを呼び出そうとした瞬間、視界の端に奇妙なモノを捉える。各部屋のポストが集合しているその場所。そこの上から3段目、右から5番目にある火神宅のポストに違和感を感じる。エレベーターは最上階へ止まっている様だ。ボタンを押し、ポストの方へと注視する。

 火神はその不気味な状況に思わず固まった。黒い長封筒がぎっしりと詰まっている。口を開けたポストに無理矢理十何枚ものDMが無造作に突っ込んである。

「……何だよコレ」

 一部を引っ張り出すとまたあの白い文字で『家族、売ります』とだけ書いてあった。全ての封筒が同じ仕様、同じサイズ、おそらく中身も同じだろう。こんなのが狂ったように自分のポストへ捩じ込んであるのだ。

 昨夜感じた嘗めるような視線を肌が感じる。ビリッと電気が流れる感覚が皮膚を弾く。それは警告だ。本能が、奇妙な出来事に対して警告を発していた。

「誰だよ! こんな悪戯する奴は!!」

 "得体の知れない恐怖"のぶつけ所として壁を強く叩く。静寂なエントランスに火神の声と壁を叩く、くぐもった音が響いた。


 火神はペンケースからボールペンを取り出すと、ハガキにまず名前・生年月日・住所・電話番号を記入する。一通だけを残し、あとの封筒はゴミ箱へと捨てた。不要なモノと分類付けられた手紙の束が厭らしくゴミ箱から覗く。

「欲しい家族か……」

 片手で器用にペンを回すと、先日思った通りに『父親・母親・妹』とボールペンを走らせる。何だか急に子供戻ったみたいに気恥ずかしくなった火神はポリポリと頭を掻くとペンをテーブルに放り投げ「風呂入るか」と呟く。誰も居ない部屋に火神の声だけが響く。

 シャワーで汗と一日分の汚れを落とし、お湯を張った湯船に身を沈めると大分緊張がほぐれた。そうすると先程までの出来事が馬鹿馬鹿しくなった。あんなこっ恥ずかしいハガキは出さずにまた丸めて捨てる事にしよう。一人だって別段困った事にはならないし、どうせまたアレックスも居候しに本国から来る事だろう。

 風呂から上がりタオルで濡れた髪をガシガシと掻く。バスタオルがじんわりと水分を吸い湿り出す。リビングに戻り、ハガキを回収しようとした彼は立ち尽くす。

 ハガキが無い……。

 テーブルの上にはボールペンだけが無造作に転がっている。大量に投げた気味の悪い封筒も同時に姿を消していた。狐に摘ままれたような火神は、辺りを見渡すがそれらの行方を掴むことが出来なかった。泥棒を疑い、貴重品を確認するが何も取られていない。荒らされた形跡も無い。本当に、封筒以外の被害が無い様だ。

「頭でも狂ったのか……?」

 フラフラとベッドルームに立ち入る。結局ソレを"勘違い"や、"鮮明過ぎる妄想"として片付けるしか無い火神は、日課のストレッチも忘れ横になった瞬間に眠りに落ちた。ほんのり濡れた髪の毛が枕も濡らす。


 …………………


「……―なさい、大我。」

 誰かが意識の向こう側から声を掛ける。張りのある女性の声だ。自分を名前で呼ぶ女性なんて一人しか知らない。しかし彼女は今海の向こうに居るはずだしこんな流暢な日本語で話せない。

「起きなさい! 朝でしょ!!」

 そう怒鳴られ火神は飛び起きる。目の前には腰に手をあて仁王立ちした女性が何時も彼が着用するエプロンを身に纏っていた。その女性は女優の様に美しく、目鼻立ちのバランスが絶妙だった。後ろでひとつに結わえた髪がほんの少しの生活感を演出している。

「は?」

 状況が飲み込めない火神は、起き抜けで寝惚けている頭を動かし始める。ドタドタと廊下の向こうを走る音がする。

「お兄ちゃん起きたの? おはよ」

 自室のドアから幼い少女が顔を覗かせる。中学生だろうか。ぱっちりとした二重が目立つあどけない顔付きだが、マスカラで必死に睫毛を華やかにしていた。

「やだぁ、また裸で寝てる―……」

 若者らしい口調、嫌悪を剥き出しにした表情を火神に向ける。彼は風呂から上がりハーフパンツに上半身裸のまま眠りに就いていた。幼い少女は綺麗に結ったポニーテールを揺らすと、顔を引っ込めバタバタとまた廊下を走りだす。

「ほら、あなたもいつまでボーッとしてるの? 髪もボサボサで! 顔洗ってらっしゃい!」

 背中をドンと叩かれ、小さく呻く。確かに乾かさないで寝た為に髪の毛はアチラコチラを向いている。彼女らは部屋を後にし、リビングへと向かう。火神は一人になった部屋で頬をつねり首を傾げる。

「ねぇお母さん? お父さんは?」

「もう出ました。今日は朝イチで会議の準備。あぁ大我、トースト5枚よね? もう3枚焼くから待って」

「そんなに食べるの? キモ〜い……」

 女性独特の高い声がポンポンと弾けるように騒がしいリビング。静閑だった生活空間に花が咲いたようだ。

「あ、あぁ……」

 髪を整え制服を着込んだ火神は空いている椅子に座る。テーブルにはサラダとマグカップに温かいスープ、皿に盛り付けられたスクランブルエッグと程よく焦げたソーセージ。ジャム、マーガリン、コーヒー……。どれも湯気が立っている。フォークを握りソーセージを噛むと、いつも通りの味が口の中へ広がる。

「ほら、早く食べなさい。朝練あるんでしょ?」

「……いただきます」

 目の前に差し出された皿を受け取る。焼かれたトーストはいつも自分で焼いているモノと大きさも厚さも変わらない。このメニューだって冷蔵庫に入っている材料を使用したのだろう。

「キョーゴーコウって大変だよね―、あたし絶対無理。疲れて学校行きたくない」

「どうせ授業中寝てるんでしょ。テストの順位が上がっても、この位置じゃあ大学にも行けないわよ」

「……えっ?」

 トーストを噛んだ火神は驚く。テストの順位がほんの少し上がったら事はまだ誰にも教えていない。それ所かその結果はとうの昔に捨て、然るべき場所で灰になった筈だ。頭を抱え状況を把握しようとする。そんな火神を4つの目が不安そうに見つめる。

「ごちそうさま」

 パンとソーセージを噛じっただけの朝食。何故か食欲が湧かない。フラリと立ち上がり椅子を引く。部屋を出る時にクスクスと、含み笑いを背中にぶつけられる。

「え……? 恋煩い? やだぁ、キモ〜い……」

 リビングから幼い罵声が聞こえた。一体何なんだコレは。夢にしても悪い冗談だろ……。朝起きたら見ず知らずの他人が我が物顔で自宅を占拠していた。

 火神は鳴るお腹を押さえながら歯を磨き、玄関のドアを開ける。何も変わらない風景なのに、昨日までの自宅とは丸っきり様変わりしてしまった。