「ふざけんじゃねぇ!! 高尾!! 殺すぞ!!」

 放課後。男子バスケットボール部、部室。

 後頭部をロッカーに打ち付けた高尾和成は、襟首を捻り上げられ暴力を奮われていた。相手は二つ年上の先輩で、元々短気で気性の荒い人物だ。

「何の事っスか? 宮地サン」

 横鼻を痙攣させた宮地は、ガンを付けて高尾を睨み続ける。木村が二人から目を逸らし、関わらないようにしていた。

「何やってんだよ!! 宮地!!」

 部室のドアを勢いよく開けた大坪は、まず大声で宮地を静止させようとした。一年生部員が不穏な宮地を察して主将を呼びに行ったらしい。大坪の後ろに数人の人間が立っている。

 それでも高尾の襟首から手を外さない宮地は、掴んだ後輩の身体を揺する。

「何って!! 見りゃ分かんだろ!! 指導だよ!!」

「離せ!! 宮地!!」

 手首を強く掴まれた宮地は、舌打ちをして高尾を突き飛ばす。ロッカーに背をぶつけた高尾の周囲に、心配そうな同級生達が駆け寄る。

 二、三人に介抱された高尾は、気まずそうな顔を伏せる。そんな塩らしい態度に腹が立った宮地は、自身が喰い掛かった理由を怒鳴った。

「昨日オレと木村のバッシュ盗んで燃やしただろ!! ソコの公園で!! マジに殺すぞ!!」

「は……?」

 困った顔を上げた高尾和成は、昨日の朝いきなりに高熱を出して一日中うなされていたのだ。その事実を知っている大坪は、腕を組んで苛々したような口調で宮地を問い質す。

「何で高尾がそんな事する必要あんだよ?」

「んなの、コイツに聞けよ!」

 床に転がる高尾のバッシュを蹴り飛ばした宮地を、大坪は叱る。物に当たるな、最低だぞ! と云う説教ですら宮地清志を苛々させた。

 怒りが沸点超えた宮地は、笑顔のまま高尾を見下して更に付け加える。

「……お前、オレらのバッシュ燃やしてる時、笑ってたよな? 馬鹿にしてんだろ! 本当は!!」

「……そう言えば」

 大坪は呟いて、彼等の足元を見た。確かに、今の宮地と木村は上履きのままだ。高いスポーツ用具を簡単に買えない彼等は、愛用品を始末されて代わりを用意出来ずに居る。

 真っ青な顔して二人の足元を見た高尾は、真一文に結んだ口を開く。

「……笑ってたんスか!? 燃やしながら、オレが!!」

「今更しらばっくれんのかよ!!」

 介抱している後輩を無理矢理退かして高尾へ再び殴り掛かろうとする宮地は、かなり頭に血が昇っているようだ。

「宮地!!」

 大坪はそう叫び、宮地を羽交い締めにした。

「答えて下さい!! オレ、ずっと笑ってたんスよね!?」

 しかし高尾は暴力的な宮地のTシャツを掴み、強めな質問を投げる。その気迫に押され、宮地は少したじろいだ。

「そうだよ! 何がそんなに面白かったんだよ!!」

 強情な怒りに整った顔を歪める宮地へ、不安そうな顔した木村が話し掛けた。

「なぁ……宮地。オレさ……」

「木村ぁ、後にしろ」

 高尾の手を外させた宮地は、背後に立つ木村に訝しんだ視線を向けた。木村は伏し目がちのまま、不可解な事を口に出し始める。

「高尾の顔……覚えてねぇんだよ。笑い声しか聞いてねぇっつーか……。お前、ずっとバッシュ見てたから分かんなかっただろうけど……」

 伝えたい意図が判らない宮地は、トントン……と上履きで床を叩きリズムを刻む。

「そりゃ、暗かったからだろ」

「だけど、顔がねぇっておかしくないか!?」

 眉を困らせた木村は、本日一番意味の判らない事を告げてきた。

 ――顔が無い? 後ろで居心地悪そうにする高尾にはちゃんと顔がある。なのに、木村は昨日の高尾には『顔が無い』と言うのだ。

 面倒そうに頭を掻いた宮地は、溜め息で木村を批難した。

「パニクんじゃねぇよ」

「そもそも……その日は高尾、熱出して学校休んだだろ」

 再度事実を口に出す木村は普段は強面の筈なのに、今は恐怖に震えているようだ。

「だから気にくわねぇんだよ! 冥土に送んぞ!」

 振り向き高尾へ乱暴な言葉を怒鳴った宮地は、その相手の様子に少しだけ違和感を覚える。

「……忘れてた。忘れてた……最悪だ……」

「高尾? 顔色悪いぞ」

 大坪が高尾へ寄り添い、肩を数回叩く。しばらくブツブツ呟いていた高尾は、宮地と木村の方を向いてこう言った。

「オレ! 今日から一週間は笑わないんで! 笑ってるオレ見たら、絶対に会話しないで下さい! 頼んます!! 会話だけはしないで下さい!!」

 今の高尾和成は、普段ヘラヘラしている姿からは想像も付かない程に怯えている。神に祈るように両手を組み合わせ、真っ青な顔で必死に懇願する。ソレがその場を誤魔化そうとする演技にしか見えない宮地は、大きく舌打ちをした。

「なぁに馬鹿な事言って誤魔化そうとしてんだよ? 轢くぞ」

「宮地サン!! お願いします!!」

 再度すがり付こうとする高尾の両手を叩き払う。ピシャリと云う音と、後輩の絶望的な顔が宮地の良心を揺さぶった。

「……馬鹿馬鹿しいんだよ。バッシュ買って返せよな? 次の練習試合、四日後だろ?」

 そう言って最悪な空気で充ちる部室から脱出した宮地は、荷物と制服を抱えて今日は帰る事にした。……レギュラー同士がこんなんじゃ、まともな練習にもならないだろう。

 そんな彼の後を追い掛けて来たのは、木村だった。

「宮地、なぁ……高尾の言う事信じてやろうぜ?」

「何を信じんだよ? 二重人格ゴッコをか?」

 未だに高尾の肩を持とうとする木村に腹立った宮地は、振り返り様に睨みを利かせた。昨日のアレが高尾で無いと言うなら、何なんだ。高尾和成はこの世に二人居ると言うのだろうか?

「公園で見た高尾がさぁ……気味悪くてよぉ」

「ビビりィー。馬ァー鹿」

 整った顔を付き合わせ、臆病者のチームメイトを思いっきり馬鹿にしてやる。

「今日は、あの公園のコートで自主練してっから」

「……宮地」

 まるで犯人である高尾を待つかのように、宮地は昨夜バッシュを燃やされた公園で自主練習をする事にした。




 時刻は夜の七時。二時間程の自主練に飽きた宮地は、ベンチに腰掛けて両手で顔を拭う。風が少し出てきたのか、蜂蜜色の髪を揺らした。

 ――少し意地を張り過ぎたのかもしれない。もしかしたら、高尾にも考えや言い分があったのかもしれない。……だからと言って、笑いながら人の私物を燃やす行為を正当化させたくは無い。

 丸く収める為に謝るかどうかを悩み、宮地は上身体を前屈させ項垂れる。悩むのが得意じゃない宮地は、状況が打破出来ずに強いストレスを感じていた。

「みぃーやじさぁーん」

 しばらくすると、か細い声が前方から聞こえた。肩を跳ねた宮地は、慌てて正面を見やる。すると、ソコには学ラン姿の高尾が俯いて立っている。

 腹立つ事に、その高尾和成は口元を笑わせていた。

 『笑っている自分と話すな』と言われていたが、言い付けを守り"からかわれる"のだけは嫌だった。だから、彼は二十メートル程先から動かない高尾へ言葉を投げる。

「高尾、お前早速ヘラヘラしてんじゃねぇか。刺すぞ」

 暗い公園じゃ、高尾の顔はよく見えない。口元以外は影が落ちて不鮮明なのだ。

「……何か喋れよ」

 ふと、木村の言った事を思い出した。

 ――顔が無い――

 なるほど。アイツがそう感じた理由が判った。確かに、黒い影で表情が無く見える。しかし、理由が判れば怖がる意味は無い。暗闇が顔面を隠しているだけだ。

 宮地はそうやって自分を納得させ、向こう側に佇む高尾へ強気の姿勢を見せた。

「馬鹿にしてんだろ?」

「……刺すぞ」

 突如相手から飛び出した生意気なその言葉に、宮地の頭へ血が昇る。短気な自分を反省する事が多い彼だが、自身を抑制する術は持ち合わせていないようだ。

「首絞めんぞ!!」

「絞める……?」

 怒鳴りに対していきなり冷静な返しをした高尾が何時もと違う風貌で、宮地は少したじろいだ。

「何だよ、じょ……冗談だろ。いつもの!」

 "冗談"と云う言葉に反応したのか、高尾は急に口角を上げて大きく笑い出した。ゲタゲタと肩を震わせる程に全身で笑っている。まるでカラクリ人形だ。

 ……その笑いは何処と無く、人間とは思えない。言うならば、タガを外したように笑い過ぎているのだ。顎を外す程に笑った高尾は、口の端から唾液が垂れている。

「いつまでもキチガイの振りすんの止めろ!! 轢くぞ!!」

「……い"ぐ?」

 完全に顎が外れたのか、口を閉じずに高尾はそう言った。気持ち悪い程に口を開けた後輩を直視出来ない宮地は、目を瞑って大声で威嚇する。

「高尾!!!」

 目蓋の向こうには暗闇。自分の声が反響し、高尾の笑い声が重なり響く。風が吹いている筈なのに、木々のざわめきは聞こえない。

 不気味で大きな笑い声を上げ続けた高尾は、いつしか笑いを止めていた。そのタイミングで宮地が目を開けると、相手はまるで暗闇へ紛れるように姿を消していた。

「何なんだよ! マジで!!」

 顔面を両手で覆った宮地は、背中に掻いた汗を夜風が冷やす感覚に身震いをするのだった。





 次の日……部活に行くのも憂鬱な宮地清志は、高尾がまた熱を出して休むのを期待していた。最悪な先輩である自覚はあるが、あんな不気味な姿を見た直後に平然と練習なんか出来ない。

 彼が目当ての場所まで足を運ぶと、部室の前にはギャラリーが出来ていた。昨日の今日で色々起こるようだ。溜め息を吐いて向かった宮地だが、門番代わりの木村に入室を拒否された。

「宮地! お前は来るな!」

「何でだよ? 木村、邪魔」

 木村を押し退け入室すると、部室に居た全員が自分を見る。中には引き吊った顔をする者も居た。ソレらの視線を不快に感じながらも、宮地は自分のロッカーを目指す。

 しかし、ソコには我が目を疑う光景が広がっていた。

「宮地サン……」

 宮地は、背後に立つ高尾を無視する事にした。ソレ以前に、自分のロッカーの前に大きな血だまりが出来ている事へ混乱しているのだ。

「……っ、何だよ……コレ」

 そして、自分のロッカーからは大きな業務用カッターが飛び出していた。手をロッカーに入れれば、リストカットのように手首がすっぱ切れるだろう。

「一年が、手首切ったって病院に運ばれたよ。お前のロッカー開けたら……そのカッター飛び出して来たって。警察来るからいじるなよ」

「刺されたのか? コレに」

 木村の説明を聞いたロッカーの持ち主は、震える指でカッターの刃を指差す。血痕が付着し、ロッカーの前には血だまり。誰かがソレで深く切った事を示唆していた。

 何故、後輩は自分のロッカーを開けたのだろうか? ソイツも自分の私物を何かしようとしたのか?

 宮地は周囲に対して疑心暗鬼になり始めていた。

「……宮地、お前ヤバいよ。恨まれるような事、してねぇよな?」

 木村がそう問い質す。宮地は頭を抱え、震える膝で立つのが精一杯だった。そんな彼の肩を掴んだ人物が居た。

 ……宮地が今、一番関わりたくない人間。高尾和成だ。

「宮地サン、喋ったんスか?」

 高尾の方を向く事も出来ない宮地は、脳裏に昨夜の光景を浮かべていた。顎を外すまで笑い、暗闇に消えた後輩……。彼が、今、自分の後ろに居るのだ。

「笑ってるオレと!! 喋ったんじゃねぇのかよ!!」

 高尾は肩を掴む手の力を強くして、そう怒鳴った。

「っざけんのもいい加減にしろよ!? 昨日から、何なんだお前は!!」

 宮地の答えを聞いた高尾は目を見開き、手で口元を覆った。叫びたいのを堪えるようにも見えるその姿は、悲壮感溢れている。

「喋ったなら、もうオレにはどうする事も出来ねぇよ……」

 足から崩れた高尾は、背を丸めて床に踞る。そして、拳で強く地を叩いた。

「クソッ!!!」

「高尾、どういう事だ?」

 木村が、高尾の丸まった背を撫でてなだめる。
「……アイツは、何て言うか……オレの…………」

 答えにくそうにした高尾は、一度開いた口を再び閉じる。

「…………スンマセン、オレ……頭が整理出来なくて……。また後で話します」

「オイ! 高尾!」

 逃げるように部室を飛び出した高尾は、木村の呼び掛けに足を止める事は無かった。

「宮地先輩、何したの?」

「……バッシュ、高尾に燃やされたって」

 部室の端で、後輩達が噂話を始めた。最初は一人、二人の発言だったが、段々と声が増えていった。

「え? 喧嘩?」

「カッターも高尾?」

「まさかぁ〜、あの高尾が? 狂言だろ」

「宮地先輩が狂言!?」

「っつーか、あの人ヤバくね?」

 宮地はロッカーを拳で叩き、周囲の噂話を止めさせた。

 ――アイツ……高尾和成は何かを隠している。

 あの不気味な姿は何だ? アイツは一体何を隠しているんだ? オレにけしかけて、何が楽しいんだ?

 答えが見付からない疑問が、宮地の頭に湧いては消えた。





「――宮地先輩のロッカー……俺が見た時は、中から血が垂れてて……」

 病院で処置を受け、手首を包帯で頑丈に巻かれた後輩は、目を瞑ったままそう言った。

「馬鹿言え。お前の血以外は、何も無かったぞ?」

 付き添った大坪は、なだめようと後輩の肩に手を置いてそう言った。確かに、彼が部室に到着した時は後輩の手首からおびただしい量の血は流れていた。でも、宮地のロッカーはカッターの刃が飛び出していた以外は普段通りだったのだ。

「俺……退部しようと思って……」

「何言ってるんだ。毎日遅くまで練習してんだろ? 頑張ってんの、知ってるんだぞ」

 その後輩は、主将である大坪が自分を見ていてくれる事に涙ぐんだ。大勢居る部員の中の、ほんの一部でしか無い自分を認めてくれる……。

「頑張り過ぎて疲れてるんだ。ゆっくり休めよ」

 安心させる為に小さく笑った大坪は、後輩の頭を撫でて励ました。

 ――しかし、後輩が首を縦に振る事は無かった。翌日出された数枚の退部届は、大坪を深く落胆させるのだった。