「兄ちゃんのお友達は、背が高いねぇ」

 "あの日"から、全てを遮断したくて引いていたカーテン。ソレ越しに声を掛けられた黒子は、読んでいた本から意識をそちら側に向ける。それは酒に焼け嗄れた声で、また甲子園の賑やかな喧騒と共に隣から声が聞こえてくる。

「ありゃクラブ友達か?」

「……バスケ部なんです、ボク達」

「おう。玉付きかぁ、モテるだろうねぇ」

 ガハガハと下品な笑いにリアルな"生命力"を感じた黒子は、少しだけ安心をする。

「今日で退院なんだよ。騒がしくて悪かったねぇ」

 そう言って、カーテンの隙間からオレンジを差し出してくれる。毛むくじゃらで、太い色黒の手だった。不清潔ではあるが逞しさ溢れる部分が、再度自分をホッとさせてくれた。彼は生きている……確実に。受け取った自分の腕の方が白く骨張っていて、まるで幽霊のようだった。

「ありがとうございます」

 皮を剥いて房をひとつ口に含めば、温くはあったが柑橘独特の清々しい味わいが口に広がる。顔が綻んだ黒子は、お礼を告げる事にした。

「ありがとうございます。美味しいです」

 そう素直な感想も告げたら、隣からまたガハガハと下品な笑いが病室へと響いた。同じ病室だったのに、滅多に喋らなかった相手から声を掛けられ、それが"退院当日"な事を悔やんだ。

 ――今夜は同室に居るあの奇妙な患者と二人きりになる……。不安に頭が支配されそうになる前に【今夜さえ乗り越えれば、自分も明日は退院だ】と励ます。

 最後に顔を合わせてお別れを言おうとした黒子は、手を伸ばしカーテンを引く。――それと同時に、長袖ポロシャツの男が向かいの"常に閉じられているあのカーテン"を僅かに引いた。例の不気味な患者と何かを話しているのだろうか。胸から上はカーテンに隠れている。

 お見舞いとは珍しい……と、黒子は素直に思った。逆に、来訪者が居る事に少しだけ安堵する。ほれ見た事か……やっぱり向こうのベッドに居るのは"人間"だ。この前のアレは悪戯か何かだったのだ。あの見舞人の服は逆さまでは無いし、足だってある。

 ――しかしその訪問者は服は泥に汚れ、所々破れている程にボロボロだった。何もそんなゴミ捨て場から拾ったような服を着なくても良いだろうに……。その【格好に無頓着な男】が体勢を変え胸から上を見せた瞬間、黒子はベッドの上で固まった。

 その平均的体系をした男は、顔を覆うように麻袋を被っていた。目元部分だけくり貫かれ、向こう側には黒が広がる。

 ――変な友人をお持ちで……。とジロジロ見るのも悪い黒子は僅かに視線を逸らし、隣の男性が看護師にペコペコお辞儀をするのを眺めていた。その近くに一組の夫婦が立つ。あれは骨折が無事完治した"元患者"を迎えに来た息子とその嫁だろう。退院出来る歓びと感謝を伝え、四人は幸せそうに談笑している。

 ――何であの人達……すぐ近くに立つ【不気味な風貌をした男】に気付かないんだ?一番近くに立つ奥さんなんか、振り返ったら悲鳴を上げるに違いないのに……。

 急にこちらを向いた麻袋の男は黒子のベッドへ身体を向けた。不味い気がした少年は、目を逸らそうとするが身体が動かない。声も出せず、こめかみから流れた汗だけが彼の頬を過ぎる。緊張が全身の熱を奪い、冷えた感覚が背筋を駆け巡る。鳥肌が腕を過ぎ、指先がビリビリした。

 麻袋を被った男は、顔を覆うソレを右手で掴むとゆっくり上に持ち上げ始める。右腕の袖がずり下がり、肌が僅かに露出した。――――袖の下の皮膚は真っ赤で、ぐちゃぐちゃだった。赤黒い肉に点々と黄色い脂肪が混ざりその向こう側には骨が覗く。まるで血抜きが済んだ食用肉のように綺麗な断面図だ。のたうち回る位に痛い筈なのに、男は気にもせず、布の下に隠された顔を見せようとする――。

 見ちゃ駄目だ
 見ちゃ駄目だ……

 顔は、見ちゃ駄目だ…………


「うわあ゙ぁ゙ぁぁぁぁぁあ!!」


 ………………


 突如大声を出した少年の存在に、入り口付近で楽しそうに話し込む四人は驚いた。隣向こうのベッドに色素の薄い少年が両手で顔面を覆って震えている。その身体の振動は、手に刺していた点滴のホースを揺する程に激しいモノだった。

 「どうしたの?」と駆け付けてくれる若いナースに抱き着きたくなる程に、黒子は恐怖心を抱いていた。煙のように消えた麻袋の男の顔面は――――まるで巨大な大根下ろしで擦られたように……悲惨な程、抉れていたのだった。

「――……すみません、もう……大丈夫です。すみません……白昼夢を見たようで」

「先生、呼んでくる?」

「――大丈夫です」

「ボウズ! 俺が居なくなって寂しいか!?」

 ガハハハ……と笑う男性の声が病室に響き、息子がソレを注意する。そんな幸せそうな光景に状況を理解した黒子は、恥ずかしさで目を伏せた。

「……そうみたいです。寂しい、です」

 威勢の良い中年男性は最後までぺこぺこ頭を下げて病室を去っていった。黒子は途端に静かになった部屋と片付いた隣ベッドが寂しくて、テレビを付けた。チャンネルを衛星放送に合わせれば、甲子園で球児が奮闘していた。スピーカーから漏れる割れんばかりの声援を受け、ピッチャーは振りかぶる。――気付くと黒子は意識を手放し、夢の中に居た。

 ………………


 ――病室前が慌ただしくなる。うっすら目を開けると、隣が騒がしい。

「ここに入院していたのよね?」

「有り得ないよ! 退院手続きしたばっかだよ?」

 ヒソヒソの中にも阿鼻叫喚が聞こえてくる。

「どうしたんですか?」

 昼寝のせいで浮腫んだ顔を起こした黒子が声を掛ければ、やはりその存在に気付いていなかったのか、一瞬だけ驚いた年配のナースが微笑んで答える。

「…………何でも無いわよ?」

 歯切れの悪い返事をした彼女は、サッサと病室を去る。一緒にいた若いナースが「ナイショだけど……」と耳打ちをしてくれた。

「そこに居た患者さん、たった今事故で無くなったって……」

 目を見開き、教えてくれた女性を凝視した。申し訳なさそうな"その顔"から、嘘は付いていないのだろう……。

「寂しいよね? 高校生なのに、一人で大部屋は……」

 たった今、黒子の視界の端に映った音も立てず【例のカーテン】の中に姿を隠した"ナースのようなモノ"は、わざわざソコを捲って存在を確認するまでも無いだろう――。黒子は手で顔を覆い、俯いてしまった。頭の中では、脳が勝手にイメージ映像を流し始めた。

 そのナースは首が不自然に折れ曲がり、重量ある頭がカクカクと座らない。目は飛び出し、充血している。ダラリと垂らした舌は唇から飛び出す。首を吊れば、嫌でもああなる……――。

「……今日、車かバイクで事故を起こした方が運ばれて来ませんでしたか? 若くて……ポロシャツの……」

 黒子は、無意識の内にこんな質問を投げていた。

「―――わ、私は病棟勤務だから……外来は……」

「……顔、擦り剥けてましたよね? 鼻が無くなる位に」

 若い看護師は、黒子を気味悪そうに見ると「……そう言うのは、プライバシーに関わるから」と言葉を濁した。黒子テツヤからしたら、その答えだけで十分だった。

 連れて行かれたんだ。あの年配家族は……。何なんだ一体?すぐそこにある仕切られた世界が【あの世】への入口に見えた黒子は、背筋に冷たい何かが走った……――。

 ――夕方、テレビに映るアナウンサーが淡々とニュースを読み上げていた。軽自動車がトラックに突っ込み炎上。六十代男性、そして息子である四十代男性とその妻が【全身を強く打って死亡した】黒子は、それをぼんやり眺めた。気付いたら部屋に蛍光灯が灯っていた。晩御飯を運んでくるナースが"自分のベッドにだけ"食事を運んで来た。

 全身を強く打って死亡――ニュースに用いられる"隠語"だ。正しくは『肉体が、原型を留めていない程に裂損した状態』を指す。きっとあの豪快な男性は……収用されている筈だ。地下の霊安室に。昨日までは隣に寝ていたのに、甲子園を鑑賞していたのに……オレンジ、くれたのに。ゴミ箱に捨てた皮が形見なんて、皮肉も良い所だった。


 ………………


「――黒子? 大丈夫かお前、明日退院だろ?」

「学校行きたくねぇからって、仮病か?」

「青峰ェ、お前じゃねぇんだから」

 ――黒子は夜分遅い時間にも関わらずお見舞いに来てくれた二人へ何も返事が出来なかった。何を口にすれば良いかも判らない。

「……もうそろそろ良い時間だろ。帰ろうぜ? 青峰」

 ベッドの端に腰掛けた火神が立ち上がり、携帯を見て時刻を確認した。青峰は、テレビのバラエティーを眺めていたが、キリ良くCMになった瞬間に丸椅子から立ち上がる。

「明日も朝練、5時起き」

 火神が溜め息と共に早起きしなくてはいけない事を愚痴る。

「絶対起きねぇ、オレだったら」

「そんなんだから負けるんだよ、テメェは」

 勝者である火神が、敗者の青峰へ嫌味を言い放った瞬間、向かいのカーテンからヌルリと何かが伸びてきた。それは人間の腕だった。火傷と損傷が酷く、一部の骨は皮膚を飛び出し外部へ露出をしていた。ソレは赤が深く染め上げ、本来の白を隠す。蛇のように地面を這う人間だったモノは、カーテンの前に立つ群青色のズボンを握り締めた。

 黒子は湧き出る吐き気を必死に堪え、目を逸らせずにいた。

 火神のズボンの裾を掴んで離さない毛むくじゃらの太ましい腕は、きっと"あの男"のモノで……――。全身の毛が逆立つ程に警告を告げ始めた。

「帰らないで下さい!火神君!!」

「――はぁ?」

 突然大声を出した黒子に、火神は肩を跳ねて驚いた。そして振り返った赤毛の男は、普段冷静な相棒が急に感情的になった事に目と口を丸くしている。

「……寂しいん、です。ボク、今晩一人だから」

 火神が自分の方を振り返っても、ズタズタになった手は彼の裾を離さない。火神が此方に向かう度にソレを引き摺り、床に赤い何十もの線が着く。

「我慢しろよ。一晩位」

 火神は気付いていない。気付かないんじゃない。"振り"をしている訳でもない。――きっとアレは自分にしか見えない。本人が見ていたら、今頃悲鳴を上げ踏み抜いている筈だ。こんな風に……平然となんか、していられる訳がない。

「一人じゃねぇだろ? 黒子?」

 火神の足元から目が離せなかった黒子は、その一言で顔を上げる。火神はすぐ後ろにある【冥界への入口】を親指で差し、眉を潜めている。

「っつーかよ、さっきからアソコのベッドの患者……気味悪ィんだけど」

「患者ァ?」

 そう呟いて眉間に皺を寄せた青峰が指差されたカーテンに近付き、ソレを一気に引く。「青峰ェ、プライバシーの侵害だぜ?」と釘を刺した火神だったが、青峰からしたらその空間には何もない。そこには誰にも使われていないパイプベッドがあるだけだ。「アホらし……」と呟いた青峰は、カーテンを閉めるが、雑な性格も相まって僅かに隙間が開いたままだった。

「――まだニタニタしやがって」

「は? 何が?」

 青峰は火神が冗談で自分をからかっているような気がして、不機嫌になった。そんな様子の相手へ、火神は困った顔をする。彼からしたら、青峰が自分をビビらせようとしている様に見えるから――。

「……居んだろ? 隙間から顔覗かせて……ガリガリな気持ち悪ィ奴が」

 心当たりがある黒子は、ゆっくり口を開き彼に"ある事"を聞こうとした。

「その人……着ている服……――」

「悪ィ、電話」

 火神はポケットから軽快な着信音を鳴らす携帯を抜き、バツが悪そうな顔をした。ディスプレイに表示された名前を見た彼は「降から電話、先行ってっから」と病室を後にしようとする。――右足にしがみつく【すっかり焦げて、肉塊になった男性】を引き摺りながら……。

 "死んだ筈の中年男性"は胸から下が無く、まるで擦り潰されたようにグチャグチャだった。僅かにはみ出した臓物の類いは赤黒く、所々に付着する黄色いモノは脂肪だろう。死体の横幅分赤い線を残し、出入り口を右に逸れた火神は姿を完全に消した。

 黒子はソレの惨状を見た瞬間、消化が始まっていた夕御飯を吐き出していた。慌てた青峰は、涙目で咳き込む黒子から目を離しナースコールを押す。だが、ソレは何度押しても応答しない。

「……んだよ、故障か? テツ、一人で大丈夫か?」

フルフルと首を横に振った黒子は、受け止めようと差し出していた両手を越して、掛け布団にまで溢れた吐瀉物を恥じて片付けて貰う事より、今は誰か傍に付いていて欲しかった。

 バリバリと頭を掻き「どうしちまったんだ?」と困った顔をして、家族を呼ぶか聞いた。母親なら朝イチに顔を出して明日の手続きをしたばかりだ。『怖いから』なんて理由で呼び出すのも恥ずかしい……。

 青峰が「じゃあ――」と口を開いた瞬間、遠くから女性の悲鳴が空気を裂いた。二人は顔を見合わせる。

「……何だよ一体? 死体でも歩いたのか?」

 笑えない冗談を吐いた青峰は窓を開け、身を乗り出すと悲鳴がした方角を見る。階の高いココからでは良く見えないが、それでも目を凝らせばそこには病院の夜間外来の入口があり、外灯に照らされ誰かが数名倒れている。直ぐに数名の医師や看護婦が駆け付け、三人程は担架に担がれていく。

「……オイ!! 火神じゃねぇか!? アレ!!」

 その内の一人が巨体で、彼が倒れていた場所には遠くからでも判る位の血溜まりが出来ていた。意識が無いのか、男手二人掛かりで載せられるのだが……その火神らしき人物は一切動かない。

 乗り出した窓から降りた青峰は「ヤベェ……」と呟くと鞄もそのままに、この病室から全速力で出ていってしまった。何重にも連なる赤溜まりの線を踏みながら。

「――……火神君!?」

 状況が判らない黒子でも、青峰の慌てようを見れば"火神の身"に【何か大変な事】が起きている事は分かった。やがて聞こえるパトカーのサイレンと野次馬のガヤガヤした声が開け放った窓から聞こえる。ヘリが飛んでいるのはマスコミが来たからだろう。

 黒子はビリッとする痛みを一瞬だけ我慢し点滴の針を抜き取ると、茶色で計量的なスリッパを履き急いで現場に向かう。――いつの間にか、あの引き摺った血の跡は消えていたのだが、急いでいた黒子は気付かないでいた。

――何なんだ!

一体何が起きた!?

嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
嫌だ!嫌だ!!嫌だ!!!

 大きな総合エントランスを抜け、細い廊下を走れば外来入口に辿り着く。既に何人かの野次馬が群がるが、その中でも頭をひとつ抜いた背の高い色黒男の隣に着く頃には、黒子の息も上がっていた。それは青峰も同じようで、呆然としながらも口で荒い呼吸を繰り返しているようだ。

「――通り魔だ、テツ……。火神、一番最初に刺されたから……深いって……――」

 ズルリと壁に凭れ床に座る青峰は、両目を拳で押さえている。

「…………火神、君?」

「警察が、犯人追ってるって……"デケェ包丁"持って逃げてるから、今は一人で帰るなって」

 凶器の特徴を聞いた黒子は、頭の中がブラックアウトした。その黒い世界から、あの不気味に細い【パジャマを裏返しに着た男】が立っていた。ソイツの身体へ纏うように民謡調子のわらべ唄が響いた瞬間――黒子は、踵を返し元来た道をまた走り出していた。

 カパカパ焦れるスリッパを脱ぎ、その辺に放ると素足のまま走り出す。病人達が現場を見ようと外来入口へと向かう中、黒子だけが逆走していた。何回も、何回も、何回も……リピート再生するかのように唄だけが着いてくる。


……だあれもいないそのふとん

……だあれもたべないそのしょくじ

……だあれもかおをみにこない

……だあれもあのひときにしない


"誰も気にしない?"

 ――もし、その【裏返しの男】を気にしてしまった人間は、一体どうなるのだろうか……――?きっとあの隣人も気に掛けてしまったのだ。あの息子夫婦に話してしまったのかもしれない。その【この世には居ない筈の存在】に……。

 じゃあ、それなら……
 ――何でボクは平気なんだ?


『……あいにいくならカーテンあけて』


 黒子は先程青峰が引いたそのカーテンに、震えが止まらない手を掛け勢いよく引いた。瞬間、あの死体のように不気味な男が顔のすぐ間近に居る妄想をしてしまい、ギュッと目を瞑る。しかし、その閉ざされた空間にはパイプベッドしか無い……。蛍光灯の僅かな光に照らされ、無機物が鎮座している。

 背後では、電源切るのを忘れていたバラエティー番組が流れていて、雛壇に座る芸人が笑いを誘っているようだ。その"笑い声"さえ自分を嘲笑っているようで、ギャハギャハと耳に反響した。


『……てびょうしさんかい、てのこうで』


「――火神君を……"連れて行かないで"下さい……お願いします……」

 幽霊のように青白い手を前に出し、幽霊のように青白い顔をした黒子は、ゆっくりと三回手を叩いた。手の甲と甲がぶつかり、僅かだが骨に痛みがが響く。


 ――しかし何もないこの空間は、"何もないまま"でしかなく……黒子は床にヘナヘナと座り込んでしまった。