とある自殺志願者の話。




 遺書は準備してある。パソコンを使って作った、本当に短い、一行だけの遺書。それを机の上に置いて、買ってきたロープをいじり始めた。
 天井の梁から、太いロープをぶら下げる。輪を作って、自分の頭が入るかどうか確認した。手でぐいぐいと引っ張って、十分な強度があることと、簡単には外れないことも確認する。そして、僕は木でできた小さな台の上に乗って、自分の首に輪をかけた。
 これで、台を蹴り飛ばせば、死ねる。目を閉じてそんなことを思った。
 長かったな。ほんの十数年しか生きてないけど、楽しいことより辛いことの方が多かった気がする。最近辛いことが多かったから、そんな風に思うだけなんだろうか。

 どっちでもいい。もう、死ぬんだから。

 ふと誰かの視線を感じて、僕は目を開いた。振り返ると、黒髪の背の高い青年が立っていた。右手に大きな鎌を携えて、じっとこっちを見つめている。一体いつの間に、どうやって入ってきたのだろう。
 死神だ、と瞬間的に思った。もうすぐ自分は死ぬから、彼のことが見えるのだろう、と。死んだら、きっと、あの大きな鎌で魂を狩られるのだ。何が起きたのか理解しないままに、本当に一瞬で、何もかも消え去るのだろう。
 それもいい、と自嘲的に笑う。多分、今生きていることより苦痛なことなんてないだろうから。
 青年が口を開いた。

「何、お前、死ぬの」

 見れば分かるでしょう。死ぬつもりですよ。だから貴方はここにいるんじゃないんですか。
 ぽつり、とそう呟けば、青年は不機嫌そうに顔を歪めた。
 今まで死神に会ったことが無いから分からないけれど、普通、死神というのは、死のうとしている人間を前にしたら、死ぬのを今か今かと待ち望んで、にやりと笑うんじゃないのだろうか。少なくとも、僕の中ではそういうイメージだ。だったら、この青年は、死神じゃないのだろうか。

「あんた、死神じゃないんですか」
「違ぇよ。どっからどう見たって真面目な好青年だろうが」

 眉間にしわを寄せながら、青年は言った。真面目な好青年は、自分で自分を真面目な好青年だなんて言ったりしないし、第一、大鎌を携えていたりなんかしない。自称・真面目な好青年ほど疑わしいものはないな、と僕は思っている。
 そしてその、自称・真面目な好青年は、つかつかと僕の方に歩いてきて、手に持った大鎌を振り上げた。

 あ、もう魂とるんですか。まだ僕死んでないんですけど。せっかちな死神だ。

 ざくり、と大鎌が切り取ったのは僕の魂でも何でもなく、天井の梁からぶら下げたロープだった。
 死神が自殺を阻止。そんな馬鹿な。仕事放棄にも程があるだろう。

「首つりは止めとけ。口から鼻から、ありとあらゆるところからいろいろ出て、汚い」
「……じゃあ、電車にでも」
「電車に飛び込むのも止めとけ。通勤中の人間に迷惑がかかる。損害賠償を払うのは、お前の家族なんだぜ」

 睡眠薬を大量に服用ってのも止めとけ。もし途中で見つかったら胃の中を無理やり洗浄されて、死ぬより酷い苦痛を味わうことになる。屋上から飛び降りるのも止めとけ。ドラマみたいには死ねないぜ。手首切るのも止めとけ。痛ぇぞ。お前に出来るなんて思ってないけどな。練炭使うのは特に止めとけ。楽に死ねるなんて言ってるやつもいるが、俺の知り合いで一人練炭で死にかけたやつがいてな。頭痛に吐き気、酷い苦しみを味わって、逃げたくても体が動かなくて逃げらんないんだとよ。
 僕がやろうと思っていたことを、全てことごとく否定される。確かに苦しいのや痛いのは嫌だし、家族に迷惑がかかるのも嫌だ。そんなことを言われたら、死ねない。
 僕が言葉に詰まると、青年は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。

「いいこと教えてやろうか。この鎌、魂なんか狩れないんだぜ」

 青年は、大鎌の刃を人差し指で撫でた。
 だったら、その鎌は何を狩るためにあるんだ。魂を狩れない鎌なんて、死神にとって何の役に立つのだろう。

「こいつが狩れるのは、感情だよ」

 酷く無表情な声で、青年は言った。

「お前は、死んで何がしたいわけ」
「……ここから、逃げたい」
「逃げるだけなら、死ななくてもいいだろ。あいつらは、お前が死んだところで何も思わないぜ」
「そんな、こと」

 無い、とは言えなかった。確かにそうだ。きっと僕が死んでも、悲しむ奴なんて誰もいないだろう。それは、癪だ。

「生きろ。生きてりゃ状況は変わる。変えられる。だけど、死んだら終わりだ。死んだら負けだと、俺は思ってる」

 死神のくせに、と呟けば、再び青年は顔をゆがめた。

「俺は死神じゃない。ただの、人間だ」
「じゃあ、ただの人間が、なんで、ここに」
「自殺したって何もいいことなんかねぇってことを、教えてやろうと思ってな」

 大きなお世話だ、と僕は思った。少なくともこいつに、僕の気持ちなんて分からない。
 けれど、少しだけ、死ぬ気が失せてしまったのも、事実で。そんな凶悪そうな鎌を持ってるくせして。他人の死ぬ気を失せさせたりして。

「……あんた、本当に何なんだよ」
「言っただろう。真面目な好青年だよ」




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