都会の蝉




 血の味がする。口の中を切ったようだ。ゆっくりと上半身を起こすと、腹部に鋭い痛みが走って、思わず俺は呻いた。
 チャラチャラした集団に汚い路地裏に連れていかれて、財布の中身を要求されたのがつい十分前。これが俗に言う「カツアゲ」なのだと理解するには数分かかった。金を渡す義理なんて無い、と言って断ると、腹部に蹴りを叩きこまれた。その後、俺は殴る蹴るの暴行を加えられたのち、唾を吐き捨てられてこのゴミ捨て場に放置された。

 初対面の人間に金を要求するなんておかしくはないか。そして断られたからといって暴行を加えるのは人としていかがなものか。
 いや、これが今の社会なのだろう。人間がおかしくなっている。目まぐるしく一日中働いて、わずかばかりの賃金を得て、疲れた体を引きずって家に帰れば、恋人に愚痴を言われて。得た金だって、税金に搾り取られるのが落ちだ。そんなことが続いていたら、おかしくなって当然だ、と思う。だからといって他人に金を要求して暴行を加えていいわけじゃないけれど。

 とりあえず、家に帰らなければならない。けれど体中が痛んで、とてもじゃないけれど立ち上がれなかった。
 抵抗すればよかったのかもしれないけれど、何となく、相手を殴る気にはならなかった。抵抗するのも馬鹿らしい、と思ったのかもしれない。数分前の俺の気持ちを、俺はもう忘れてしまったけれど、俺を殴ったり蹴ったりしてそいつらの気持ちがおさまるならまぁいいか、と思ったのだ。俺の馬鹿。
 まあ、抵抗していたら、もっとひどいことになっていた可能性もあるから、命があっただけでも良しとしようか。
 はぁ、と溜息をつく。金も携帯もあるから、タクシーを呼ぼうと思えば呼べるけれど、血まみれの俺なんかを見たらタクシーの運転手が驚いてしまうだろう。じゃあ救急車でも呼ぼうか。でも俺が呼んだことで、他の緊急の人が搬送されなくなってしまったら困るよな。いや待て、その前にこんな狭い路地裏に、車は入らない。どうしたものか。

「ずいぶんこっぴどくやられたねぇ」

 馬鹿にしたような声が聞こえて顔を上げると、フードをかぶった子供が立っていた。フードのせいで顔はほとんど見えない。中性的な声をしているから、男か女かすら分からない。

「……君は、誰だい」
「こっちが何者かなんて、君にとってはどうだっていいことだろう」
「どうだっていいかはこっちが決めるよ。君は、誰だい」

 そう俺が言うと、フードをかぶった子供は、顎に手を当てて考える仕草をした。「何て名乗ろうか」なんて呟いている。俺は少しいらだった。本名を名乗れよ、と言うと、子供はきっぱりと「嫌だ」と言った。そのことがまた俺をいらつかせる。いきりたって、全身傷だらけだということを忘れていた。勢いよく立ち上がろうとして、俺はまた呻いた。

「馬鹿だねぇ」

 子供はふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。いや、実際馬鹿にしているのだろう。大の大人が、汚い路地裏にあるゴミ捨て場に、ゴミ同然の格好でいるのだから。もしくは、怪我をしていることを忘れて立ち上がろうとしたことを笑っているのか。どっちでもいいが。
 確かに自分でも馬鹿だと思うよ。思う存分笑ってくれ。俺は自嘲気味にそんなことを思った。
 近くにあった石を蹴り飛ばして、子供は言う。

「呻いたって喚いたって、ここじゃ誰も助けてなんかくれないよ」

 子供がにやり、と笑ったのが見えた。子供らしからぬ嫌な笑い方をするなぁ、と思った。

「アスファルトの上にひっくり返ってる蝉を見たって、知らんふりでしょ?」

 俺は蝉と一緒か。
 確かに都会の人々は、アスファルトの上でもがく蝉を見たところで、何も感じない。例えば信号機の下に蝉が転がっていたとして。信号待ちの間、動けば多少驚いたりはするけれど、助け起こそうとは思わない。そして信号さえ青になれば、何もなかったかのような顔をして立ち去ってしまうのだ。蝉に触れるのが怖いのか、それとも自分のことで精一杯で、蝉なんかにかまっていられないのか。
 俺は、蝉となんら変わらない。むしろ、ぼろぼろでゴミ捨て場に倒れていて、さっきまでガラの悪い連中に絡まれていて、関わったら厄介事に巻き込まれそうな、蝉よりもよっぽど面倒くさい男なんじゃないだろうか。

 だから、さぁ。と子供は、俺の耳元で囁いた。

「人間だって、自分で起き上がんなくちゃ駄目なんだよ、お兄さん」

 髪の間から、一瞬だけ、とてもきれいな目が見えた。




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