END

 あの夏の日以降、名前は煉獄との前世にまつわるやり取りを全て忘れていた。
初めて出会った廊下での出来事も、生徒指導室で聞いた鬼殺隊の話も前世の妻の存在も、もちろん保健室での別れも全て。
 名前に残ったのは皆に人気の煉獄先生への親しみと、彼と別れて落ち込んでいた自分を励ましてくれた放課後の思い出だけだった。

 同じく煉獄も、あの夏を終えてから憑き物が落ちたように晴れやかな空気を纏っていた。あまりにも吹っ切れた様子に宇髄は、ついに生徒である彼女に手を出したのではとハラハラしたが、冬になると彼女が同じクラスの男子生徒と手を繋いでいるのを目撃し別の意味で仰天した。

「いいのかよ煉獄」
「なにがだ?」
「あいつ、同じクラスの奴と付き合ってんだろ」
「なにも思わぬわけではないが、生徒のプライベートに立ち入るのは良くない!」

 ぐうの音も出ないほどの正論に宇髄は飲み終えた缶コーヒーを握り潰す。同じ場に居合わせた冨岡も驚きの表情を見せたが、生徒指導部顧問としてガチガチの教育理念を持つ彼は同僚の変化を好ましく受け止めた。
 逆に宇髄は腑に落ちない面持ちで煉獄を眺め真意を探った。あんなに執心していた前世の妻が別な男といるのに、この落ち着きようはなんだ? 穴が空くほど螺旋を描く男の目を見つめる。

「納得できないか?」
「そりゃあ納得出来ないに決まってんだろ」
「ううむ、なんというか、区切りがついたのだ」
「区切り?」
「昔は前世の記憶と自分が混在するような気持ちだったのだが、今ははっきりと彼は彼、俺は俺だと区別がついたと言うべきか……」

 宇髄は何度も相談に乗ってもらった良き同僚だ、自分には説明の義務があると煉獄は言葉を重ねるがどれもしっくり来ない。ますます首を傾げ深みにはまる彼を見て、宇髄も「おまえが良いなら問題ない」と切り上げるしかなかった。

「だが安心してくれ、俺は今も名前が好きだ!」
「そうかよ」
「この気持ちは彼女がここを卒業したら伝えようと思う。俺は大人だからな」

 宇髄と冨岡は確かに煉獄の決意表明を直接聞いたが、まさかそれを当日に実行するとは思いもしなかった。


 学生達は修学旅行を満喫し大学受験に追いかけられ、泣きながら合格通知を受け取ればあっという間に卒業の日を迎えていた。
 三年間袖を通した制服も今日で最後だからとカナヲやアオイと並んだ姿を後輩の竈門炭治郎に撮ってもらい、式を終えた彼女はソワソワしながら帰りの支度を済ませる。
学生鞄からはみ出す卒業証書の筒を気にしつつ肩に背負い、同級生たちといくらしても足りないぐらいの「さようなら」「またね」「ありがとう」という別れの挨拶を繰り返し、玄関を出た。幸い外には晴天が広がり、学び舎を巣立つ卒業生を祝福しているようだった。

「卒業おめでとう!」
「煉獄先生!」

 きちんとネクタイを締めた煉獄が手を振って彼女を呼び止める。
 二年に引き続き三年も冨岡が担任を務め最後までクラス担任を持った事は無かったが、男女問わず人気の煉獄は卒業式も相変わらず生徒達に囲まれ、先生との別れを惜しむ生徒達は後を絶たなかった。
 そんな煉獄が一人でいる事を珍しく思う名前に駆け寄り、煉獄は校門までの短い道のりをそれとなく、彼女の隣をキープする。
 煉獄と彼女が二人で話すのは、二年の夏以来初めてだった。

「先生の授業はいつも楽しくて分かりやすかったです、それに放課後に恋の悩みまで聞いてもらっちゃったり……ありがとうございました」
「そう言ってもらえると教師冥利につきるな!」
「今日はこの後、アオイちゃんのお家の定食屋さんで卒業パーティーするんです。竈門くんとか胡蝶先輩も呼んで! だから朝ご飯を控えてたら式の最中にお腹すいちゃって」

 あはは。と笑って腹部を抑える彼女を見て、なるほど落ち着かない様子はそのせいかと思いつつ、煉獄の方こそ気もそぞろに彼女と校門までの距離を目測してはうずうずしている。
 彼女もなんとなく忙しない煉獄の雰囲気を感じ取ったが理由は分からず、愛着のある学校生活を惜しんでゆっくりと歩を進める。

 そんな二人の姿を宇髄や冨岡、不死川や胡蝶といったいわゆる「記憶持ち」の教師陣がさり気なく観察していた最中、痺れを切らした煉獄は突然、名前の肩にかかる鞄を奪い取った。

「すまん、少し我慢してくれ!」
「え?」

 なにを? と聞き返す前に煉獄は続けざまに彼女の体をひょいと横抱きに持ち上げてしまった。
 彼女が目を白黒させて全く先の見えない展開に体を硬直させたのを良い事に、煉獄はそのまま校門までを一気に走り抜ける。

 周りの生徒達から飛んでくる「きゃー!」という黄色い悲鳴に混じった冨岡の「ここはまだ校内だぞ!」という若干的外れな怒号を背に受けても、全部知らんぷりを突き通して煉獄は走る。
 名前は名前で、あの煉獄先生が突如自分を抱えて走る意味が分からずに赤面し、とりあえず向かい風でめくれかけたスカートを抑えてあたふたするしかない。
 煉獄の体が校門を跨いで外に出るとようやく揺れが収まり、腕の中で縮こまっていた彼女は一瞬の安堵を得た。これで下ろしてもらえると思ったのだが、一向に煉獄は彼女を手放す気配がない。

「煉獄先生……?」

 そんなに先生も定食屋さんでの卒業パーティーに出たかったんですか? と尋ねる前に煉獄の首が折られ、近距離で顔を向き合わされて彼女は何も言えなくなってしまう。
 迫力のある姿や大きな声に惑わされて忘れそうになるが、煉獄はバレンタインデーにはチョコを二十八個も貰う程見た目が良い。性格の良さが伴ってこその人気だが、そんな異性に接近されて彼女はより一層縮み上がり、抵抗する気力すら湧いてこない。

「学園の敷地から出たということは、君はもう立派に学園を卒業したということで間違いないな!」
「はっはい」
「つまり俺と君は教師と生徒ではなくなった、それも間違いないな!」
「一応、そうだと思います」
「うむ、うむ! ところで君は今現在恋人はいるだろうか?」
「恋人?!」

 どうしてそんな質問を? と恥じらう暇も無く、ただでさえ近かった顔が鼻先が触れそうになるぐらい間近に迫り、名前は「ひぃ!」と悲鳴を上げながら頭がもげる勢いで首を横に振った。
 煉獄は大いに満足してその答えに頷いた。ずっとこの時を待っていたのだ、保健室の一件からずっと、なので多少の性急さや強引さは大目に見て欲しい。
 あれから前世の記憶と共に感じていた「炎柱」の存在は自分の内に見当たらず、色眼鏡を外した眼差しで彼女を見た。

 当の本人は忘れてしまったが、彼女に「私じゃなくて奥さんの生まれ変わりが好きなんですよね」と言われた日の答えを、一年越しに応えよう。

「君が好きだ!」

 初めて会った時、訳も分からず大人の男に詰め寄られ怖かっただろうに、真正面から向き合ってくれた誠実さが好きだ。
 授業中眠そうにしながらも頑張って起きようとする幼げな表情が可愛くて好きだ。
 友人と笑い合う年相応の無邪気な笑顔が好きだ。
 それらは前世とは関係無く、今ここにいる君だから好きなのだと、ありったけの感情をひっくるめて自信を持って言える。
 もちろん、この瞬間腕の中で耳まで赤くしながら涙ぐむ姿も愛しくてたまらない。

「俺を君の恋人にしてほしい!」
「そっそんな急に、え、え? 待ってください、ちょっと頭が追い付かない……」
「今すぐ返事をとは言わない。俺は何年でも待つつもりだからな」
「年単位?!」
「もちろん、ただ待っているつもりはないぞ!」

 これぐらいは許容範囲内だろうかと、煉獄は名前の髪にそっと口づける。
 とうとう校門から飛び出して追いかけてきた冨岡に叩かれるまであと五秒。
 彼女が煉獄の恋人になるまであと……。
 彼女と煉獄が夫婦になるまであと……。