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「おかえり。遅かったね、お仕事お疲れ様。夕飯もお風呂も準備出来てるよ」
「…………? ただいま」
「先どっちにする?」
「……えっと」
「もしかして、先にオレにする?」

 はい、おかえりのぎゅー。
 食欲をそそる香りを漂わせた景光に玄関先で力強く抱きしめられた。痛い。ぎゅーって声は可愛いけど、効果音で誤魔化しきれないみしっと軋む音が背骨から聞こえる。記憶の景光を細身に美化していたのか、会わない数年の間に劇的な肉体改造をしたのか。一部の隙もなく鍛え上げられた彼の体に押しつぶされ、私の貧弱な体は悲鳴を上げた。声とパワーのギャップが詐欺すぎる。
 というか、なんで家にいるの?

「ぐえっ……ひろみつ、くるしぃ……」
「ああ、ごめん。君におかえりって言えるのが嬉しくてつい」

 首をすくめて頬を染める景光の体が離れていく。私だって、帰宅したらエプロン姿の恋人に出迎えてもらえるなんて嬉しいに決まっている。彼のエプロンからはバターと魚のにおいがした。夕飯はムニエルかな。景光ってエプロン似合うな。……じゃなくて。

「どうしたの景光、仕事は?」
「終わらせてきた。明日は非番だから君さえよければこのまま泊まっていいか?」
「それは良いけど。終わらせたって、事件を追ってたんじゃないの?」
「うん」
「犯人捕まえたってこと?」
「そうだよ」

 警察の知り合いは景光しかいないので比較が難しいが、犯人ってそんなすぐに捕まえられるものだろうか。三日前のデートの途中に緊急の電話が入り、そのまま現場へと直行した彼を見届けた時には一週間は会えないのを覚悟していたのに。
 ついでに言えば景光の留守を利用してこの一週間に職場や友人との飲みの予定をしこたま入れていたので、今日も軽く引っ掛けてきて帰りが遅かった。浅ましい私は景光の笑顔に胸が痛んだ。
 とりあえず靴を脱いで部屋に上がりキッチンを覗く。予想通りそこには鮭のムニエルが並んでいて歓喜の声を上げた。いつも私が適当な炒め物を作ってばかりいる台所にオシャレな香草がのったムニエルがあると見違えるなあ。
 頭の八割が目の前のご馳走に持っていかれるさ中、お腹に伸びた太い腕に体をぐんと後ろ向きにされ、引っ張られた。ぐえっ、と数分前と違わない不細工な声を上げる。声を上げさせた犯人はもちろん景光だ。高い鼻先を私の肩に擦りつけて、彼は聡くそれを嗅ぎ分けた。

「……お酒と煙草の他に香水の臭いがする」
「あー、うん、実はちょっと飲んできて」
「男がいただろ」

 私に対しては棘のない喋り方をする景光が唐突に牙を剥いた。
 ここで素直に男性のいる飲みに参加したのを謝るのが正解だった。そうすれば彼の機嫌を損ねるだけで無用な嫉妬心に火をつけずに済んだのに、アルコールでちょっといや随分判断能力が低下していた私は下手な言い逃れをしてしまったのだ。
 それが完全な悪手だと知らずに。

「えー、あー……いたけど、後輩が男の人も呼んでたのを知らなくて……でも二人だけだったよ」
「君と後輩と、男が二人?」
「あー……うー……」
「なんの安心材料にもならないな」
「いっ?!」

 シャツを引きずり降ろされ露わになった肩口をきつく噛まれ全身が強張った。ほろ酔い気分で大好物に浮ついていた気持ちを一気に吹き飛ばす痛みに、景光の本気を垣間見て血の気が引く。
 帰ってきた景光は以前とはちょっと様子が違う。前は自分と相手の交友関係に深く踏み込もうとしなかったのに、今は私に友人(あの耳にタコのゼロを含めた同期四人)を紹介したり、私の友人や家族に妙に会いたがるのだ。しかもその度に「恋人」の二文字を強調する。
 もういい年なんだからそういう恥ずかしい事を大っぴらに言わないで欲しい気持ちと、幸せそうに私の肩を抱く彼に満更でもなく絆されてしまうこちらの顔を見て、萩原さんは意味ありげに「なるほどねえ」と呟いていた。なにに納得したのかは教えてくれなかったが。
 景光は特に、私の周囲の男性陣を気にするようにもなった。景光がいるのに他の男に目移りしないよ、と言っても「相手はどうだか分からない」と聞く耳持たず。「私よりも景光の方が異性が寄って来るでしょ」私の呆れた返事には何故か喜んでみせて「嫉妬してくれるの? 大丈夫だよ、君以上の女性なんて世界中のどこにもいないんだから」等と筋違いの惚気をかまされて黙らされた。

「こんな簡単に脱げるような恰好で他の男と飲んでたって、危機感持てよ」
「いやっこれ普通に仕事用のシャツで……! ほんと、仕事でちょっと会っただけの人たちだから!」
「ふぅん」

 あ、また間違えた。

「例の男とも仕事で知り合ったって言ってたよな。そういう場所には名前をこういう目で見てる輩がいるってこと分かってるのに、反省してないんだ」

 服で隠しきれるか微妙な場所についた大きな噛み跡に熱い舌が這う。ほんのり滲んだ赤いしずくを舐めとった舌先がデコルテを滑り、浮き出た鎖骨で止まった。
 人体の急所を捕食者にとらえられ神経が研ぎ澄まされる。湿った熱を過敏に感じ取る肌が粟立った。景光は知らぬ間に磨いたギラつく両目で私を見上げていた。

「今日は一緒にご飯食べてお風呂入るだけにしようと思ってたけど」
「ひろみつ」
「やっぱり先にオレにしておいて」

 私を抱えたまま手際よくエプロンを脱ぎ捨て圧し掛かる彼の体からはバターと魚と、今度は少し汗のにおいがした。