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 自分の規格には合わない小さなワンケーのアパート。窓際に置かれたクッションに身を投げ出してレースカーテンの向こうの空を見上げる。
 夜中から明け方まで降り続いた雨が大気を洗浄したおかげでくっきりと澄んだ、だだっ広い青。
 サングラスも目隠しもなしの両目は視界良好だ。
 ドア一枚隔てた向こうにいる名前のエプロンの結び目までちゃーんと見える。下手くそなちょうちょ結びは片一方がだらしなく伸びていて、言ってくれれば僕が結んであげるのにと思った。

「ふぬけになるわこりゃ……」

 ごろんと寝返りを打つとつま先がテレビ台をかすめて上に飾られた観葉植物を揺らした。長身イケメンだとこういう狭苦しさがデメリットなんだよねえ、と誰も聞いてない自慢を垂れて起き上がり多肉植物の無事を確認する。
 生きものの世話は面倒くさいと豪語する恋人がどういう風の吹き回しで手に入れたのか分からないソレは、僕が初めに見た時と変わらない色合いを保って日を浴びていた。
 つやつやと肉厚な葉は名前がマメに手を入れている証拠。それがなんだか気に食わない。
 いいよねー植物はさ、ただそこにいるだけでゆるされて。あいつとずーっと一緒でさあ。このグッドルッキングガイがどんな苦労をしてここに居られるようにしてると思ってんだ生意気だな。

「まっ、ゆーて大した苦労じゃないけどね」

 名前との時間を捻出する苦労なら苦労ではなかった。生家のことも呪いのことも、しがらみは多いがアドバンテージは常に僕が握っている。
 誰にもこの世界の邪魔はさせない。

「さとるさーん、オムライス出来たからドア開けて」

 声なき植物にさもしいやきもちを焼いていた僕の鼻に、名前が焼いた玉子の香ばしい匂いが届く。ドアにはめこまれたすりガラスでぼやける彼女の姿は皿をのせたトレーを持ってふらふら左右に揺れていた。

「両手ふさがっちゃったの、早く開けてくれないと冷めちゃうよ」
「トレー持つ前に扉開けるだろふつう」
「悟さんお腹すいたかなって思って、早く食べさせようとしたの」
「僕ってば愛されてるぅ」
「チーズかたくなってもいいの」
「それはよくない」

 名前の作るオムライスは薄焼き卵とケチャップライスの間にチーズが挟まっていて、それが熱でびろーんと伸びるのがたまらなく美味いのだった。
 内開きのドアを引いて部屋の主を招き入れる。その手にあるオムライスからただよう湯気を思いっきり吸いこんだらヨダレが出そうになった、あっぶねえ犬かよ。
 名前はそんな僕を気にも留めずにローテーブルに皿とコップを並べて早々に腰を下ろした。もはや僕の所有物になりつつあるオレンジ色のクッションを下に敷いて彼女の隣に詰める。肘同士が触れ合う近さに彼女がこっちを見上げた。

「となり合ったら狭いじゃん、向かい側に座りなよ」
「やーだね」

 両手で作った拳を顎に添えて小首を傾げた。きゅるん、と愛らしいだろう僕の視線を無視して彼女は二つのコップに麦茶を注ぐ。

「悟さんってよくぶりっ子するけど、自分が自販機よりでかいぬりかべだって忘れないでね」
「ぬりかべのぶりっ子は可愛くない?」
「かわいいよ。だからあんまり私以外の人に見せちゃダメ」

 はい、こっち悟さんのスプーンね。
 ケロッとしたまま言ってのける非術師年下の恋人現在交際歴二年目に突入。
 耳とか首とか赤くなっていればまだ可愛げがあるのに耳も首も赤くしていたのは僕だった。
 くそ。こういうのは男がリードして女を赤くさせるのがセオリーだって月曜九時のドラマでやってたのに、全然カッコつかなくて悟困っちゃう。

「マジでふぬけちゃうよ僕」
「はいはい、いただきまーす」

 僕のオムライスよりサイズの小さいそれにスプーンを入れた名前。かために焼いた玉子とトマト色のご飯の間から伸びたチーズを口に運んで満足そうに微笑む。
 僕も早口に「いただきます」って言って、スプーンで大きくすくった一口を空腹の胃袋に放り込んだ。チーズの塩気を考えて薄めに味付けされたケチャップライスも、かための玉子も、熱々のチーズが絶妙なバランスで口の中で調和する。

「うっま」
「わたしってば天才」
「天才かつ最強の僕には負けるけどね」

 名前は僕が何者であるかを詳しくは知らない。呪術師だということ、危険の多い職だということ、教えたのはそれぐらいで強引に恋人にした。
 名前は知らない。僕が本当に、嘘偽りなく世界で最強だということを。
 名前は知らない。隣でオムライスを食べる男が指先一本で自分の命を簡単に奪えることを。
 僕がその気になれば成し得ないことなどなにひとつない。

「でも最強の悟さんにだってこの最強のオムライスは作れないでしょ。だからオムライスの最強は私ね」

 オムライス以外の料理は苦手なくせに麦茶を飲みながら名前は得意げに言う。前に来た時に出してきたカレーはニンジンの大きさが不揃いなせいで煮えてなかったろ。
 僕の優しさで言わないであげた悲劇のカレーの真実を教えようとして、やめた。
 もう一口オムライスを食べる。美味い。確かに最強だ。
 見えすぎる僕の目に映るどこからどう見ても弱っちい女の子が、正真正銘最強の僕に不可能を教えてくれる。
 それがとても心地よくて、らしくもなく胸のあたりが熱くなって、自分の青臭さに笑いが込み上げた。
 僕の青い春はとっくの昔に枯れ果てたのに、目の端に入った多肉植物の瑞々しさがこっちにも沁みてくる。
 君は知らなくていい。君を知るまでの干からびたつまらない僕なんて。

「あはは」
「笑ってないでスプーン動かして」
「うんうん、そうだね。僕にはこのオムライスは作れない!」

 だからこの子は僕よりも先にいなくならないでほしいな。
 だって君がいなくなったら僕はきっと、死ぬまでオムライスなんて食べたくないもん

「デザートにエクレアもあるよ。悟さん、チョコとキャラメルどっちがいい?」
「えー、シュークリームが食べたい気分」
「エクレアとシュークリームなんて味は同じで形だけ違うようなものだし、エクレア丸めて食べれば?」
「それは絶対まずい」
「じゃあ今度はシュークリーム買うから、今日はエクレアで我慢してください」
「しょうがないなあ」

 また今度。
 これからもずっと、あきるぐらい、また今度って僕に約束してよ。口約束でもいいからさ。