「なまえ―!飲み行かない?」
「あー、今日はいいわ」
「また残業?」
「残業というか…」
「残業でしょ、程々にしなきゃね」
「わかったわかった」
生返事をして、誰もいなくなった会社で一人デスクに向かう。
明後日はブラック部長が帰ってくる日。
データの打ち込みだけでいいと言われたけど、自分でやれるところは自分でやっておきたい。
目薬を点して瞬きを数回してからパソコンを立ち上げる。
ピリリリリ…
携帯の音でさっきまで寝ていた事に気づく。
ボーっとする頭を無理矢理覚醒させて携帯を手に取る。
画面を確認しないまま電話に出た。
「はい」
『こんばんは』
「部長ですか?」
『はい、もしかして睡眠中でしたか?』
「え、いや、すみません」
『いえ、僕こそすみません』
「何かありました?」
『いえ、今日変わったことや困ったことなかったかと思ったので』
「いえ特…」
『どうしました?』
「部長、心配しないでくださいって言ったじゃないですか」
『あはは、すみません』
部長の笑い声初めて聞いた…
大抵笑顔だけど笑い声は初めて。
なんだか私だけが本当のブラック部長を知ったような大きな気持ちになる。
昨日の言葉も思い出して、すこし鼓動が高まる。
『みょうじさん?』
「はい、」
『無理だけはしないでくださいね』
「大丈夫ですってば」
『何かあったら電話してください、会議中で出れなくても折り返すので』
「わかりました」
『それじゃ』
「おやすみなさい」
まだ治まらない鼓動を感じて、中学生か、と自分を自嘲した。
時計を見ればもう日付が変わる頃だった。
惜しいと思いつつ帰る支度をした。
次の日も業務終了時間になっても席を立とうとしない私を見て、やっぱり同僚が声をかけてきた。
「なまえ―」
「はいはい、お疲れ様―」
なるべく仕事を進めたくて、結構ぞんざいな態度をとったけど彼女はそれを気にしない。
「また残業?」
「いいからいいから」
「怒られちゃうよー」
「仕方ないもん。終わらないんだから」
「隈できないようにね」
「はいはい」
“この不景気に残業禁止なんておかしいのよ。”と心の中で悪態をつきながら今日も当然のように一人デスクに向かう。
ふと気付いた。
いつもカバンに入れたままにしている携帯を机の上、手元に置いている事に。
別に気になるところでもない。
でも、自分の事は自分が一番わかっている。
期待しているんだ、ブラック部長からの電話を。
何のために?
ふと沸いた疑問の答えは見つからなかった。
そして頭をかすめた答えは認めることができずに、また頭をリセットして残りわずかの仕事に取り掛かった。
「…あと少し」
時計は、また今日ギリギリのところを指していたがあと少しだから終わらせてから帰りたい。
帰ろうなどとは考えることなく、時計から目をそらした。
ピリリリリ…
まるで待っていたかの様に素早く携帯を手に取った自分に驚いた。
「もしもしみょうじです」
『こんばんは、今自宅ですか?』
「ええ」
また嘘をついた。
「本当ですか?」
電話から聞こえるはずの声は電話から聞こえずに、恐る恐る振り返った先にはブラック部長がいた。
11/04/18
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