宇宙の中に居るみたいだ、なんてまだ一度も足を踏み入れた事の無い世界をまるで知っているかの様に離す彼の声は、酒が入っているせいかどこかふわふわと舌足らずでとても甘い。例えば彼を知らない女性であれば、いとも簡単にその手の内に転がってしまうかもしれないが、手馴れてしまったこちら側とすれば、その口から飛び出してくる言葉にわずかばかりの頭痛を覚える。
やれやれと冷えた水を注いできたグラスをカウンターで伏せる彼の目の前に置くと、気付いたのか「謝々」と軽く手を挙げ、ごくりと音を立てて飲み干し、そうして漸く落ち着いたのは、はぁーなんて大きな息を吐いた。

「やっぱリコちゃんがいいよ」
「どの口でそう言うんです?」
「えー、この口?」

つん、と綺麗な節くれだった指で、自らの形のいい唇を突付きながら言う彼は、至極あざとく、そうして嫌な奴だ。

「昨日はどのくらい飲んだんですか?」
「あれ?釣れないなぁ」

きゃらきゃらと機嫌よく笑うのは、きっとまだ酒が抜けきっていないのだろう。
鼻を掠めるアルコールの匂いに、少しだけ眉根をひそめたとき、彼は指を折って数え始めた。

「最初は居酒屋でしょー。で、そこで美人さんと会って2件目に行って。で、その後別れたんだけどたまたま其処に客引きが居て。別嬪さん紹介するって言うからお座敷上がってみんなで騒いでたら、女郎さんの1人が僕の事誘ってくれて」
「もう良いです」

それからね、あのね、と際限なく続いていく話を強制的に切る。
少し不満そうに彼は顔を膨らますが、すぐにぷすっと空気が漏れて、そうして元通りの端正な顔に戻る。ああ、美丈夫は良いですね。どんな顔をしても整っていて、と空いたグラスを持ってその場から立ち去ろうとしたら、その手をするりと彼に掴まれた。

「どこ行くの?」
「え?」
「聞こえなかった?どこ行くの?って言ったの」
「グラスを、片付けに」
「置いておけば良いよ」

「桃タローくんに片付けてもらうしね」と顔を覗き込んでくるように首を傾げる彼の手をゆっくりと自分の空いているほうの手で外し、彼から少し距離を取り、そうして零れ落ちそうになったグラスを握り直す。それを見ながら彼は肩をすぼめて笑う。

「そんなに僕の事やなの?」

なんて、酷い事を言うんだろう。
もし私が彼の事を嫌いだったら、きっとこんなにも面倒臭い事はしていないのに。
結局そういう肝心な事は一切伝わらないんだろうと思うと、覚えた頭痛が痛みを増す。

今思えば完全に失敗だったのだ。
物腰が優しい彼のそれに心を打たれた事も、あまつさえそれに憧憬の念を抱いた事も、恋情に変わった事も、ある冬の日にこっそりと想いを伝えてしまった事も、あの時、彼の目がぱちりと大きく瞬いて、ふにゃりと目尻を下げて、そうして細い目がもっと細められて「僕も」なんて笑ってくれた事も、全部。
個人的には一大事だったというのに、彼には日常茶飯事でよくある出来事なのか、あっちへふらふらこっちへふらふら。まるで自分は蝶々だと言わんばかりに花から華へ移り気をして。結局彼が「リコちゃん」と呼ぶ時は決まって溺れ切った後なのだ。
それじゃぁ何と言うか、まるで、ただの侍女のようなものじゃないか。私はこんなにもこんなにもこんなにも、と回る言葉が頭の中で絡まって何がぱちんと弾けるような気がした。

「・・・白澤様の方が私の事嫌なんでしょう?」
「え?」
「だから、白澤様は」

つん、と鼻の奥が痛む。この先はきっと言ってはいけない。
言葉にしたら多分今まで耐えてきたものが全部腐り落ちてしまいそうな気がした。
例えば、月夜にぼんやり考える随分と情けの無いものとか、白昼に悶々と考える随分とはしたないものとか、好きだとか愛してるだとか随分と陳腐なものが見っとも無い言葉が私の口から零れだしてしまいそうな頃合い。
木製のカウンターが少しだけ軋む音がして、下がっていたはずの顎は力の入った指に押し上げられる。そうして瞬きする間も無く、視界は影で覆われ、鼻腔は酒の匂いで塞がれ、口腔内にはずるりと這いずり回る舌。

「は、くたくさま?」

呼吸をするため離れてしまった唇の隙間から彼の名前を呼ぶと、彼は真っ直ぐに私を見て、そうしてやれやれと息を吐いた。

「馬鹿だなぁリコちゃん」
「え?」
「男が弱ってる所見せる相手なんて大本命のコ以外有り得ないんだよ?」

なんて言いながら彼の人差し指は私の目尻を何事も無かったかのように拭い、まるで子供をあやすかのように優しく頭を撫でる。
きっと多分観測的にだけれど、これだけの一連の動作を戸惑い無くこなしてしまう彼は手馴れているのは間違いないだろう。
けれど、「大本命」と言い切った後の彼の視線が恥ずかしそうに空へ泳いでいた事は「だから一緒に居てよね」と言う念押しの言葉と共に私の胸の内に大事に大事にしまわれるのだ。



(ねぇ白澤様)
(何?リコちゃん)
(今度はちゃんと私の事好きって言ってくださいね?)
(・・・ッ、)


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