からころこんこん、とんしゃなり。
耳を澄ませば鈴の音と笑い声。鼻を澄ませば色気と花と誘惑の香り。
むせ返る様な地獄の暑さと不浄の密度は少しだけ眩暈を引き起こすような錯覚をもたらす。嗚呼厭らしい卑しい傾城街は衆合地獄。
それらを振り払うようにと足を進めると、その一等地に構える店は姿を現す。
さらに目を凝らすと、今日もその姿はのんべんだらりと店前で煙と愛想を撒いていた。

「檎ちゃーん」
「よーぅ、リコ。仕事は終ったんかいね」
「ばっちりっすよー」

とん、と煙管を椅子で軽く叩いたかと思えば、そのままくるりと袖へと仕舞う。
そうしてよっこらしょと爺くさい声を上げて、彼は立ち上がって私の傍へと歩いてきたので、私ももう少しだけ彼へと近づいた。

「今日も亡者噛みまくってやったよ」
「そら忙しいな」
「21人」
「それは多い方なん?」
「ふつーっす」
「ふつーっすか」

その距離およそ野干2匹分。
そうかい、と檎ちゃんは笑いながら私の顔を親指でぐいぐいと拭う。
何事かときょとんとすれば、「血塗れ」なんて言うから、私は慌てて自分の手の甲で顔をぐいぐいと拭う。おかしい、ちゃんと顔を拭いてきたはずなのに!と納得行かない顔をする私を見て檎ちゃんは「大方、帰りしなに亡者でも見付けたんじゃろ」とまた笑ったので、うぅんと頭を捻る。

嗚呼、そう言えば帰りしなに亡者に噛み付いたような・・・?
なんてゆっくりゆっくり思い出す。
確かシロさんが「リコー、そいつ齧ってぇ!」なんて言いながら追い回していたので、おうよ!とばかりに応戦した気がする。草葉の陰で、亡者をふたりでガジガジやった。そうだ、そうだ。きっとそうだ。
となるとこの血はシロさんの所為か!うわー今度毛づくろい手伝ってやんない!!
なんて思い出して奥歯をギリギリさせていたら、檎ちゃんの手が今度は頭に伸びる。
そうしてぽんぽんと大きな手が頭の丸っこい部分を優しく撫で付けた。

「顔面白い事になっとるよ」
「うぎゃーやらかしたー」
「まぁ可愛らしいからええけど」

ぎゃふん!
この男は!この男は!と声にならない声で彼を見上げる。
するとやっぱりいつものように檎ちゃんはへらへらとしたまま、特に此れといった在れも無いような顔をして首を傾げるばかりだった。
嗚呼とんでも無い、狐じゃなくて最早狸野郎だ。(小判ちゃんもそう言ってた)
嬉しいやら恥ずかしいやらどうしたらいいのやらの感情を何とか精一杯胸の内に押し込めて檎ちゃんを見上げ、口を開こうと思ったら、私の背後から私と檎ちゃん以外の声がした。

「ねぇ、今日お店休み?」
「アレ、兄さんじゃ。今日はえろうお早いな」
「んーたまには従業員休ませてあげたいしね」
「はっは、流石白澤兄さんはお優しい人じゃ」

とん、とまるで赤子をあやすみたいに私の肩を叩いて、檎ちゃんはするりと私を通り越してお店に向き直る。そうしてどんどん離れて花割烹狐御前の暖簾を開けた。
途端辺りに漂うのは甘い甘い気だるい香り。さっきまでの薄ぼんやりとした煙管の香りはあっという間にそれに掻き消されてしまった。

「女の子にあからさまにしょんぼりされると慰めたくなるんだよね、僕」
「嫌です止めてください遠慮します触らないで下さいスケコマシ野郎」

代わりにぽんと肩に軽々しく乗せられた手を払って睨みつけるように視線を上げると、全然めげてない顔がそこにあって心底イラっとした。
この男、神獣じゃなかったらとっくの昔に噛み付いてズタボロにしてやったのに!と思っていたら、「コラ」と檎ちゃんの声が降って来た。

「上客様相手に眼飛ばしなさんな」
「哈哈哈、眼飛ばされてたの?僕てっきりお誘いかと思ってたよ」
「死んで地獄に落ちろ」
「やー、もう此処地獄なんだけどねー」

性懲りも無くあっけらかんと笑うその声に、いい加減噛み付いてやろうかと思ったけど、がっしりと襟ぐりを抓まれ、そのまま少しだけ宙ぶらりんになる。

「リコ」
「うぇぇ、だって!だって!!」
「ホラ、白澤の兄さんも早く店の中入っちゃってくださいな」
「好的〜。じゃ、リコちゃんまたねー」
「そのままくたばれ!」
「リコ」
「・・・うっす」

ごめんなさいの言葉と引き換えに地面に足がつく。
そうして恐る恐る見上げたら、檎ちゃんは少しだけ呆れたようにもう一度頭をぽんぽんと撫でた。

「今日はもう帰りんさい」
「もう?」
「ワシも仕事せんといかんしな」
「仕事してたんだ」
「・・・リコ?」
「・・・うっす」

ほらほら、もうお帰り。
そう言って更にもう一度頭をぽんぽんと撫でられた時、ぽつりぽつりと辺りに鬼火が宿るのを見た。傾城町の目覚めの時間。私の苦手な甘ったるい下卑た世界が頭をもたげる。かんからころんと何処からか鈴が鳴り、きゃらきゃらと姦しい声が増えてくる。

「明日も来ていい?」
「ええよ」
「じゃぁ今日はもう帰る」
「気を付けて」
「ねぇ檎ちゃん」
「何じゃい」

どこからか種火を取り出して、仕舞っていた煙管に翳す。
吸い込んで吐き出すとそれはふわふわと私の周りに纏わりついて、そうして甘ったるい匂いを全部取り去って変えていく。

「また明日ね」
「おぅ」

その匂いは、ずぅっと付いてきて。
明るい明るい傾城町を抜けて、薄暗くなった地獄の道をとぼとぼと歩いても、家に着いてぐぐぐと背伸びをしてもまだあって、私はまた明日が酷く待ち遠しくなるのだった。


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