神田神保町はいつもとなんら変わりない土曜日の午後だった。
黄色い太陽は雲を纏い、頃合いの光を惜しみなく振り撒くが、レンガ貼りの部屋に篭っていてはその恩恵に預かる事は出来ない。しかしゆらゆらと漂う珈琲の湯気を一身に浴び、そうして右から左へ視線を動かす。それと連動して左から右へと頁を捲るその誘惑に、所詮太陽如きが勝てるわけなど無いのだ。

目の前でぽんぽんと軽快に交わされる活字の会話。その言葉尻に幾らかの遊び心が含まれている。追い詰められていく犯人はその一言一言に足元を救われ、ぐらぐらと今にも全てが崩れそうだ。あれから一体どの位経ったのか。はらはらと顛末を見守っていると、ふと目の前が翳った。

「リコさん、おかわりどうですか?」
「ひばりちゃん」
「随分と熱心ですね。珈琲冷めちゃってますよ」
「あ、ごめんなさい!折角頂いてるのに」
「いえいえー」

大丈夫ですよ、と言いながら珈琲カップを攫って行くのは、此処月舟の看板娘のひばりちゃん。その後ろ姿を追いつつも、視線は手元の物語へと落ちて行く。「待て」が出来無いなんて随分と失礼だとは思うけれど、太陽すら勝つ事が出来ない誘惑に、いち市民が勝てる事など無いのだ!と正当化し遠慮なく活字と事件を追っていたら、戻ってきたひばりちゃんが笑いながら私の目の前に再びゆらゆらと湯気を立ち上らせる珈琲と、包装紙に入った小さなクッキーを届けてくれた。

「さてはリコさん、無睡シリーズにはまっちゃいましたね!」

なんて酷く嬉しそうな顔をして笑うひばりちゃんは、その数時間後に手土産にと久堂蓮真の小説をいっぱいに詰めた袋を手渡してくれたのだった。







月舟から出たのは太陽が姿をくらませようと企んでいる頃で、ふらふらと家に辿り着いたのはすっかり月が微笑みかけている頃だった。と、言うのに玄関先に明かりが灯っていない。嗚呼またなのかと階段を上り無遠慮にドアを開けた時、部屋の中で黒い影がゆらりと動いた。

「おかえり」
「ただいま」
「今何時」
「18時」
「通りで真っ暗な訳だ」

よいこらせ、と年甲斐に無く呟き立ち上がり、その影は開け放したままのカーテンを閉めて、そうして漸く部屋の明かりを灯す。橙色の淡い光が部屋いっぱいに広がったところで、その影は改めて私へと向いた。

「珈琲の匂い」
「月舟で本を読んできたの」
「じゃぁその手元の袋も本か」
「ええ、久堂蓮真のね」
「随分と気の利く手土産だな」
「そりゃぁ、貴方のお気に入りの探偵さんからの手土産だもの」

そっと袋から取り出すと、手土産として渡された本は随分と読み込まれた跡があった。
しかし随分と読み込まれた割にとても綺麗にしてあるので、察するにお気に入りの物なのだろう。ぱらぱらと頁を捲ると、殺人事件と銘打ってある本とは似つかわしくない様な薄桃色の紙が零れた。
手を伸ばし、その紙を拾い上げると、可愛らしい字で「また感想聞かせてね」と書いてあるので思わず吹き出す。一体どれくらい久堂蓮真が好きなのかと思っていたら、目の前で影が揺らいで、そうして私の手元から薄桃色の紙を奪った。

「何」
「別に」
「何それ」
「いや、随分と普通の“お手紙”だと思ってな」
「当たり前でしょう?」

普通じゃない“お手紙”を出すのは貴方くらいよ、と返すと、目の前の影は肩を揺らして笑う。それもそのはず。ちらりと先程まで影が居座っていた机の上には普通じゃない“お手紙”がぽつり。それもとんだ熱烈なもので、私は小さくため息を吐く。

「また徹夜?」
「作業が忙しいからな」
「構成校正公正攻勢ってそればかり」
「当たり前だ」
「私にだって構ってくれない」
「終ったら構ってやるって」
「なら単刀直入に大好きって書いて終らせればいいのに」
「単刀直入に大好きって書いてみろ」
「…気持ち悪い」
「だろう?」

そう言うこったよ、とひらりと影は身をかわし、そうしてひらひらと手を振る。流れるその一連の動作の違和感にそれに気付いて思わず「阿」と声を上げるが、すっかり取り込まれてしまった本は薄桃色の手紙と共に暫く返って来ることは無さそうで、私はひばりちゃんにどう謝ったらいいそればかり頭の中で巡っていたその時、目の前の影がゆらりと動く。

「リコ」
「何」
「感想を述べ終わったら構ってやるさ」
「ひばりちゃんは貴方の感想は望んでないと思うの怪盗大鴉さん」
「ほう」
「だって本を借りたのは私なのよ」

ぐしゃり、と混ぜっ返された髪の毛を直しながらあたかも他人行儀に素っ気無く言い返すと、目の前の影は随分と人の悪い顔をして「そりゃそうだ」なんて笑って、そうしてまた目の前からゆらりと消えていくのだ。



(強く返してと言えないのは、探偵と怪盗の物語が見たいから)


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