視界が全部埋め尽くされてしまった。
シンドリアの空も、花も、街も全部影に埋め尽くされてしまった。
どうしよう!なんて余りにも突然の事態に動揺を始める心は忙しなく動き、あっという間に私の体温すべてを底上げして、まるで鍋の中にでも居るかの様にぐらぐらと揺れた。

「ジャーファル様…えっと」
「離しませんよ、泣き止むまで」
「ですが、私もう泣いてなんか」
「というより、離せません」

何故、と涙がすっかり止まった目で空気を求め縋る様にどうにかこうにか上を向くと、そこにあったのはシンドリアの真っ青な空と繊細な象牙色の髪。それと困ったような表情を浮かべた深い深い色をした目。

「とても、惜しいので」

そう言って少しばかり硬い表情で笑われた時、行き場をなくしてしまった私の手はそっと彼の服を掴んだ。






+++






何なのだろう、と思った。
私はヤムライハ様の言いつけ通り、黒秤塔の3階奥の部屋で掃除をしていただけのはずだ。窓を開けて、机の上の乱雑に置いてあった羊用紙を束ね、棚の埃を払い、床を拭いていただけのはずだ。
だというのに、私は今にこにこと笑うシンドバッド王の目の前に座らされている。
最初に尋ねたところ、逃げてきた!と仰られたのでてっきり隠れるものとばかり思っていたが、シンドバッド王は隠れるばかりか、ぐいぐいと私を巻き込んで世間話を始めた。
最初はなんとなしに、近況を尋ね聞いたりといったものだったが、次第に内容は変化し、いつの間にか会話は途切れ、そうして少しだけ小難しい顔をなさったシンドバッド王が目の前にいる事態となった。

「ええと」

どうしたらいいのか分からず、そうしてこの空間に耐えかねて声を上げる。
すると私の思いが通じたのか、少しだけ考え込んでいたシンドバッド王がぱっと宝石みたいな色をした目を向けて、何やら妙に吹っ切れた顔をして私に微笑んだ。

「やっぱりいくら考えても上手い口上なんて出ないから単刀直入に聞こうか」
「はぁ…」
「リコは、ジャーファルについてどう思う?」
「…え??」

突然の話題に目を瞬く。質問の意図に辿り着くまでに随分と時間を要し、理解し、少しだけ気恥ずかしくなって回答までに時間を要したが、シンドバッド王は相も変わらず微笑みを湛えて私を待っていてくれたので、おず、と私は口を開く。

「…王様が期待している答えを私は出せる気がしません」
「それは一体どうしてだい?」

どうして、というシンドバッド王の言葉に先日起こった事や、今までの事態を思い出す。
それは考えれば考える程気恥ずかしくて、泣きそうになりそうで、表すならばとても甘酸っぱい色でその思い出を鮮やかに塗り替える。
だからこそ、私は思うのだ。

「本当にこれが恋なのかわからないからです」

ただ単に舞い上がって突っ走ってはしゃぎまわるソレの正体は果たして恋なのか。
問いただしたところで一様に皆口を揃えて「恋」だと言うが、本当にソレが恋なのか。
もしかしたら、非日常的なことに舞い上がっているだけではないのか。
そう思うと軽々しく、私は彼を、この感情を正しく評価することが出来ない。

「勿論、ジャーファル様は誠実で優しくてお強くて立派な方です」
「ああ」
「私なんかとは違い、とてもとても立派な方」

だからこそ、と言葉を乗せる。
その時開け放したままの窓から少しだけ冷たい風が吹き込み、纏めていた羊用紙が鳴き、その声は私の髪飾りを揺らしたのを感じた。
まるで間違いではない、と背中を押すようなその風に私は口を動かす。

「勘違いしてないか、見極めたいのです」
「勘違い?」
「ジャーファル様のように立派な方に贔屓にしていただいているので、その特別感を軽々しく恋だと勘違いしているだけかもしれません」
「それはないだろう」
「ヤムライハ様もそう仰いました」
「だろうな」
「しかし私自身、まだ納得が」

いっていなくて、と言うよりも前に、シンドバッド様の大きな手が、長い指が私の口元へと止まり言葉を制す。その行動に飛び出そうとしていた言葉もひゅんと引っ込む。

「リコは難しく考えすぎているな」
「そう、でしょうか」
「まぁ、それが君という人間なら俺は何も言えないが、そんな君に俺が少しだけ見聞を聞かせよう」
「七海の覇王伝説ですか?」
「ああ、女性の扱いならまかせておけ」

にこっと、歯を見せて笑うシンドバッド様に思わず吹き出す。
そんな私を見て、シンドバッド様は拗ねた振りをして、場を和ませた後、たった一言だけ言葉(王様曰く見聞)を与えてくださったのだった。

「少しでも相手に触れたくなったら、それは恋だ」



(恋は下心であるとはよく言ったものだ)


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