バナナクレープ、二百円



 あーあ、あったかい場所でのんびりしたい。
 眠気でぼんやりとする視界の中、手元だけはなんとかのろのろと動かす。汚れた床をちまちまとクリーナーを落としながら拭き上げ、こびりついた死の匂いを少しでも元通りに。フローターの仕事は日銭を稼ぐにはもってこいだけど、現場によって当たり外れが多い。今日は割とマシな方で、この前行ったゴミ捨て場の近くは匂いが酷くて本当に倒れるかと思った。今日の現場はビルの地下フロアで、地下は匂いが篭りやすいけど、ここは無駄にだだっ広いからその心配は無用だった。

「撤収するぞー」
「はあい」

 バイトリーダーの声掛けに返事をしながら立ち上がると、ポキポキと背中が嫌な音を立てる。やば、明日筋肉痛かも。あんまり動いてないはずなのに疲労感が凄い。しゃがんだままする作業はなかなか慣れないものだ。

「いやー、やっぱり苗字がいると助かるわ。お前めちゃくちゃ溶接とか上手いし」
「へへ、褒めても何も出ないですよ」

 ぐうと背伸びを一つしてから、あたりに散らばった道具を拾ってケースに戻していく。今回初めて使ったやつ、大きさも使い心地も良かったしまた次も使おう。学校の経費で落ちないかな、自分用にもひとつ欲しいんだけど。言われなければ気が付かれないぐらいには綺麗になった床をもう一度見て、割と良いクオリティに仕上げてるし日給もう少し上がんないかな、と通帳の数字を思い浮かべた。

「お、自販機あるじゃん。なんか飲む?」
「わーいありがとうございまーす!」
「奢りと聞くとテンション上がるよな、お前」

 はいはい、と言いながら財布を出してくれるリーダーの後ろに大人しくついていく。貰えるものは貰っておけ主義なもので。ビルの一階に並ぶ自販機は、薄暗い地下から戻ったばかりの視界には随分と眩しく思えた。「せんぱーい、俺もお願いしまあす」「お前は同期だろうが」と同じ暗殺科の先輩から絡まれてる様子を見ながら、この後どうしようかなとぼんやりと頭の中で予定を考えてみる。今日のバイトは昼終わりだし、なんか甘いものでも食べたい。アイスとか、クレープとか。
 原宿でも寄ろうかなと考えていると、先輩達もジュースを購入したようで、自販機のルーレットが三桁の数字を点滅させていた。残念ながらハズレらしい。「苗字ー、次の現場も頼むぞー」と言いながら渡されたサイダーは、私の好きな昔ながらのマークのやつだった。

 ぱちぱちと舌の上で弾ける炭酸を楽しみながら、駅前で先輩達と別れてあてもなくぷらぷらと街を歩く。商店街で何か食べようかな、でもガッツリまではいらないんだよなあ。コロッケ、サンドイッチ、肉まん。どれもいまいちピンとこなくて、やっぱり甘いもの食べたいかもとスマホであたりのカフェを調べてみる。残念ながらマップ上ではこの近くには見当たらず、やっぱり原宿に行くべきだったかなと近くの公園のベンチに腰を下ろした。
 なんかめんどくさくなってきたし、コンビニスイーツで妥協しちゃおうかな。なんて考えていたその時、ふと甘い匂いが鼻をくすぐって思わずぱちりと目を見開いた。じゅわっと溶けたバターと、ふんわりと甘いホットケーキみたいな香り。すん、と鼻を鳴らすと、連動したかのようにお腹がくうと音を立てた。

「……パンケーキ、いや、クレープ?」

 ふらふらと匂いにつられて歩いていくと、公園の端の方にぽつんと移動車のような何かが見えてくる。飾り気のない、シンプルすぎる見た目の移動販売車。メニューも至ってシンプルで、バナナ、チョコ、スペシャルなやつ……。いや、スペシャルなやつって何だろう。逆に気になる。そして私の嗅覚は間違っていなかったようで、看板に書いてあるこの店の名前であろう文字を小さく読み上げた。

「田中クレープ……」

 いや、そのまんますぎる。誰だよ田中、店長の名前? ていうか値段安、バナナクレープ二百円ってマジか。思わずメニューを凝視していると、「しゃーせー」と気だるい声が聞こえてきて視線を上げた。声の印象通りというか、黒髪のダウナーな感じの男の人とばちりと目が合う。少しだけ彼が目を見開いたのは、客が来たことに驚いたからだろうか。

「……おねーさん、クレープ買ってく?」
「え、あ、はい。じゃあ、バナナクレープで」
「はいよー」

 二百円っス。そう言うと、店員さん(おそらく田中さん)は生地を鉄板の上に落としてくるりと形を整えていく。家で作るのはちょっとめんどくさいし難しいこの作業、手慣れてるなあなんて手元をじっと見つめていると「初めてだから失敗するかも」なんて言うから思わずその場でこけそうになった。なんなんだこの人。

「え、店員さんなのに作るの初めて?」
「そー、今日から開店だから」
「練習とかは……?」
「俺バイトなんで」

 店長じゃなかった、じゃあ田中さんでもなさそう。よく見れば結構若そうな見た目だし、エプロンすらも身に付けてなかった。……大丈夫かなこの店。まあ値段も安いし、不味かったらリピートしなければ良いだけか。「ホイップ多めにしときますねー」と言いながらうにょうにょと波打つクリームと、パラパラとまばらに乗せられていくカットされたバナナ。わりとボリュームのあるその見た目に、忘れかけていたお腹の虫が小さく音を鳴らした。

「ハイ、バナナクレープっす」
「ありがとうございます、お兄さん初めてなのに上手ですね」
「どーも」

 受け取ったクレープは綺麗にくるくると巻かれていて、甘そうな熟れたバナナとふわふわとホイップ、薄くて端のほうが少しカリッと焼けた生地がとても美味しそう。思わず大きめに口を開けてぱくりと一口かじる。甘くてシンプルで、素材の味が生かされた普通に美味しいクレープだ。生地も意外ともっちりしていて食べ応えがある。

「え、おいしい。これで本当に二百円?」
「さあ、田中さんが決めたし」

 てか腹減った、俺も食べよ。彼はそう言うと、再び生地が鉄板の上にどろりと落ちて、じゅうと良い音を立てた。接客しながら食べるんだ、やっぱりこの人普通じゃないよ。
 他に客もいないし、彼の言う店長(田中さん)もいない。私も別に店員さんが何してようが気にしないから、「上手く焼けたぜ」とドヤ顔をしている彼を見ながらクレープを食べるのも、別に悪くはない。あと、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、推しのアイドルと雰囲気が似てる。だからかな、どう見たって変な人なのに、どうしてか気になってしまうのは。

「おにーさん、名前聞いても良いです?」
「……なに、ナンパ?」
「うーん、……そーかも?」

 美味しくて安いから通いたいし常連客として覚えてもらってサービスしてもらえないかなって気持ちが七割、田中じゃないなら結局貴方は誰なんだって気持ちが二割、そして、彼にほんの少し興味が湧いてしまったのが一割。そんな気持ちで名前を問うと、彼はまた目を少しだけ見開いていた。

「おねーさん、面白いすね」

 そして、そう言ってにやりと口角を上げた表情は、推しのキラキラとしたアイドルスマイルよりも身近な男の子って感じがして、ちょっとだけときめいたかも、なんて。
 その笑みに少し衝撃を受けて固まっていると、まだ貰ってなかったレシートの裏に、彼の持つボールペンがさらさらと滑った。カウンター越しに見えたのは、カタカナで「セバ」と書かれた文字と、数字とアルファベットの羅列。うわ、なんか手慣れてそう。歳近そうだし仲良くしよーぜ、なんて微笑まれたら受け取るしかなかった。おずおずと手を伸ばして薄っぺらいそれを受け取る。名前、全然田中じゃなかったし掠ってもなかったな。

「あ、ポイントカード作る?」
「……ポイント貯まったら、何か特典あるんですか?」

 彼は私の質問を聞くと、少しだけ思案して、そしてメニューの看板を指差しながら口を開いた。

「スペシャルなやつ、一回無料。……って、田中さんに提案しとく」

20240425


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