お砂糖ひと匙分のずるさ



 色付きプラスチックのコップにしゅわしゅわと炭酸の気泡が小さくはじけては消える。ぼうっとその光景を見つめながら、ヨレたシャツの一番上のボタンを外し、ジャケットを乱雑に脱ぎ捨ててため息を吐く。目の前に座る同じような格好の男も、疲労の滲む声で乾いた笑いをこぼした。

「めっっっちゃ、つかれた」
「すげえ溜めて言ったな」
「だって……」
「ま、気持ちはわかるぜ」

 お疲れさん、の言葉と共に色違いのコップをコツンと鳴らす。近所のファミレスのドリンクバー、来るのは随分と久しぶり。こうやって座ると学生に戻った気分になれて、あの頃も割と大変だったなと少しだけ笑えた。すっかり夜も深まった二十一時過ぎ、人もまばらになった平日の店内は、思っていたよりも居心地が良かった。
 まともに休みが取れたの何日振りだっけ。そんな気が遠くなりそうな話題から目を逸らし、ストローをくるくると回しながら炭酸で舌を刺激する。久しぶりのジンジャーエール、美味しすぎるな。萎びた体に甘みが染み渡っていく。最近はずっとブラックコーヒーかエナジードリンクばかりだったなとデスクに並ぶ空き缶を思い出し、カフェイン中毒にはなりたくないと思わず顔を顰めた。一旦、一旦忘れよう。デスクの片付けは休み明けの私に頼んだ。

「萩原くんから連絡きた?」
「まだ。もうちょいかかるんじゃねえか? アイツんとこ、事後処理に追われてるだろうからな」
「あー……、お疲れ様すぎる」

 そもそもここで時間を潰しているのも、今日飲む約束をしている彼を待っているからで。まだ職場でデスクワークに忙殺されているであろう姿を思い浮かべ、心の中で萩原くんに思わず合掌。君の分まで先にゆっくりとさせて貰ってます、ありがとう。退勤してきたら労いの言葉と共にキンキンに冷えたビールを頼んであげようね。
 今日行く予定の飲み屋をスマホで検索し、何を食べようかとメニューに思いを馳せる。鶏皮ポン酢は外せないし、この月見つくねも美味しそう。迷っちゃうな、と画面のスクロールをしながら悩んでいると、カルピスソーダを飲み終えた松田くんがストローで溶けかけの氷をつつきながら口を開いた。

「なあ、苗字」
「なあに?」
「お前、今彼氏いたっけか」
「……唐突すぎない? ここ最近いないよ」

 急に失礼なやつだな、なんなのさ。君たちみたいに整った顔立ちしてるわけでもないし、私生活も結構だらしない。今もほぼすっぴんに近いほど崩れてしまったメイクに、ヨレたスーツを着た色気からも程遠いこの惨状。残念ながら新しい恋に時間を割く余裕もない。交通課の子に合コンのセッティングでも頼んでみるかな、……いやでも彼氏がめっちゃ欲しいまで無いし。

「というか、なんで今更そんなこと聞くの?」
「別に、なんとなく」
「……ふーん」

 色恋沙汰に興味がない松田くんがそんなこと聞くなんて、何かあったのかと思ったじゃん。いや、そういえば一課のマドンナちゃんと噂になってたっけ。本当は何かあるんじゃないかとじとりと見つめる私の様子にどう思ったのか、松田くんは「飲み物いれてくる」と言うと席を立ってドリンクバーコーナーの方へと向かった。いや、結構珍しいこと聞いといてそれだけなんだ。ちょっとむかつく。いや、何にって言われると言い表し難いんだけど。
 誤魔化すようにストローをズッと鳴らすと、思っていたよりも冷たかったそれに指先が僅かに震えた。程よく冷房の効いた店内と、氷でキンと冷えたドリンクで少し体が冷えてきたらしい。カーディガン、持って帰るのが面倒でロッカーに置いてきちゃったんだよな。温かい飲み物でも取ってこようかと考えていると、戻ってきた松田くんの手元にはホットドリンク用のカップが二つあった。

「カフェラテ飲むか?」
「え、いいの? ありがとう」
「ん、砂糖はスティックならひとつで良かったよな」

 タイミングの良すぎるそれに目を瞬かせる。ほら、と差し出されたスティックシュガーも、私好みの適量サイズ。普段から思ってはいたけれど、松田くんはとても人のことを見ている。気を使わせない程度の、けれどありがたい気遣い。ほんと、ずるいというか、沼の素質がある。

「……松田くんって、そういうところあるよね」
「は? どういう意味だよ」
「いや、さりげない優しさがずるいんだろうなって。そりゃモテるよね、と改めて思ったところ」
「なんだそりゃ」

 うげ、と顰めた顔を見て思わず笑いが溢れる。萩原くんだったら喜びそうなのに。そう言うと、松田くんは「アイツと一緒にすんな」とコーヒーに口を付けてひとつため息を吐いた。
 心外だと言わんばかりの表情にくすりと笑っていると、机に置いていたスマホがちかりと光る。メッセージの通知は待ち望んでいた「今終わった!」の一言で。ようやく解放された萩原くんの嬉しそうな顔が思い浮かんで、やっとお店に行けると思うと同時にお腹が空腹を訴えて小さく音を鳴らし始めた。連絡きたね、と声を掛けようと目線を上げると、サングラス越しの瞳とばちりと目が合う。

「つーか、意識してやってんのは苗字にだけだよ」
「……意識?」
「お前が言う優しさ、ってやつ」

 多分、それはさっきの話の続き。でもさっきまでの話って、さりげない優しさがモテるよねって話だった気がするんだけど。それを意識してやってるって、つまり、……え? どういうこと?
 動揺している私とは裏腹に、松田くんの口角はにやりと上がっている。メッセージアプリは三人のトーク画面を開いたままで、萩原くんの送った疲れ切ったパンダの可愛らしいスタンプがちらりと見えていた。途中まで打ったお疲れ様の文字は止まったまま、目の前の彼の真意がわからなくてスマホを持つ手が自然と机に降りていく。

「……それってさ、そういう意味なの?」
「お前が思うなら、そうかもしれねえな」
「なにそれ……、ずるくない?」
「ずるい男、らしいからな」

 さっき私が言ったこと、めちゃくちゃ気にするじゃん。余裕ありげなその表情と、少し拗ねたような口調のギャップに心臓が変な音を立てる。今までそんなつもりなかったのに、意識をしはじめたら急に松田くんがかっこよくも可愛く見えてきて。意識させるためだけにお前にだけ、なんて言葉を使うなんて、本当にずるい男じゃないか。

「そんなそぶり、なかったじゃん」
「ばーか、お前が鈍いだけだっての」
「この後三人で飲むのに、どうすんの」
「お前が気にしなければ、何も変わんねえよ」

 気にしないなんて無理でしょ、意識しちゃうに決まってるじゃん。そこまで計算してるなら本当に恐ろしい男なんだけど、きっと松田くんのことだから言いたいタイミングで言っただけで、前から私のことを少なからず良く思ってくれてたんだろう。そう思うとなんだかむず痒くて、急にぼろぼろのメイクやシワのついたスーツが気になり始めてしまって。

「……一旦、一旦保留で」
「苗字が良いならそれで良いぜ。ま、俺は俺でやらせてもらうが」

 あ、と声が出たのは、多分無意識だった。スマホを持っていた手がいつの間にか松田くんの手に掴まれていて、指先がほんの少しだけゆるく重なる。もっと近くにいたことも、なんなら学生時代にふざけて手を繋いだことだってあった。それなのに、こんな僅かな触れ合いだけで気恥ずかしくなってしまって。
 じわじわと染まりつつある頬がバレないように、勢いよく顔を逸らしてももう遅い。嬉しそうな声色で「一歩前進、ってな」と笑う姿は、窓ガラスに反射してやけに眩しかった。

20240311


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