始まりはコーヒーの香り



 あ、あの人この前見た刑事さんだ。
 ガラス越しに目の前を通り過ぎていった男性を見てふと思い出したのは、少し癖のある髪の毛と、誠実そうな真剣な表情を思い出したからだった。

 先日、とある事件に巻き込まれた。巻き込まれた、と言っても容疑者とかになったわけじゃなくて、偶然居合わせただけ。
 生放送の番組観覧の抽選枠を友人がたまたま勝ち取り、あまりバラエティを見ない私は夕飯奢りの文字に負けて連れて行かれたテレビ局。超能力者という胡散臭い男性と、怪我が多い不思議な女医さん。そんな二人のやりとりをたまにくすりと笑いながら見ていると、雲行きが怪しくなり、あれよあれよという間に初の番組観覧は犯行現場に様変わりしてしまったのだ。
 人が死ぬ現場を、初めて見た。それは人生の中でも上位に入る衝撃的な場面で。けれど、その中で冷静に、その場にいた私たちを安心させるように説明する彼の姿は、とても印象に残っていた。私たち一般人は簡単な事情聴取の後にすぐ帰されてしまったからあの後のことはわからないけれど、翌日の朝、ニュースであの事件の犯人が捕まったという音声が流れてきたから安堵したのをよく覚えている。

「いらっしゃいませ」

 来店を知らせる音が鳴り、外へ飛ばしていた意識が戻された。時間は午後十四時過ぎ、少しピークも落ち着いて、店内の客入りもまばらになってきたところ。店内でお過ごしですか、とマニュアル通りの声を掛けながら笑みを浮かべて振り返ると、そこにいたのは先程まで思い返していたあの刑事さんだった。

「えっと、ホットコーヒーを一つ」
「ホットコーヒーですね、サイズはどちらになさいますか?」
「じゃあ、……この、大きい方のサイズで」
「かしこまりました」

 やばい、少し声裏返ったかも。冷や汗をかく私を特に気にすることなく、メニュー表を指差して注文する刑事さん。グレーのスーツから見える手のひらには細かな傷が見えて、疲労の滲む顔、少しよれたシャツ、どれもが彼の仕事の大変さを語っているかのようだった。どこかの少年探偵の漫画みたいに毎日のように事件が起きるわけではないけれど、きっと警察ってキツい仕事だ。

「……お仕事、お疲れ様です」
「え?」
「あ、……す、すみません、急に話しかけてしまって」

 心の中で密かに呟いたはずの言葉は、いつのまにか声に出ていたらしい。彼の驚いた顔が目に入り、慌てて謝罪を述べる。ただ、大変そうだな、少しでもこの店で休んでいけると良いな、なんて思ってただけなのに。変なやつって思われたらどうしよう、最悪だ。
 頭を下げながら脳内でひとり反省会をしていると、くすりと笑う声が小さく聞こえて思わず目線を上げた。目尻がやわくさがり、嬉しそうに僅かに口角を上げる彼が視界に入る。

「ありがとうございます、午後の仕事も頑張れそうです」

 なんて、優しい人なんだろうか。なんというか、纏っている雰囲気も、言葉の選び方も、どれもがやさしくて温かさを感じる。そんな人が街を守る警察官なのが何だか嬉しくて、つられて私まで微笑んでしまいそうになった。
 ドリップの始まった機械からコーヒーのほろ苦い香りが漂い、彼が「あ、良い香り」と呟く。そんな言葉にすら反応してしまって、できればリピーターになってくれないかな、なんて邪な考えが頭をよぎる。違う、ただ良いお客様として通って欲しい。ただ、それだけだ。だから厨房の奥からこちらを覗いている同僚は、頼むからニヤけた顔を向けないで欲しい。

「……あの、違ったらすみません。もしかして、先日事件のあったテレビ収録の観覧にいませんでしたか?」

 もうすぐドリップが終わる、そんなタイミングで掛けられた声に、動揺して手元からプラスチックの蓋が作業台に落ちた。まさか、覚えていたなんて。あんなにたくさんの人数がいたのに、もしかして刑事さんって一人一人覚えていたりするものなのだろうか。

「ど、どうしてそれを……?」
「やっぱりそうだ。あの時、コーヒーの良い香りがする女性がいて、つい覚えてしまってて……って、すみません! その、決して職権濫用とかではなくて!」

 慌てたように話す刑事さんに、事件当日の朝のことを思い返す。あの日は出掛ける前にここで仕込みをしていたから、コーヒーの香りが服や髪に僅かに残っていてもおかしくはない。匂いで覚えられていたとは想像もつかなくて、ただ、良い香りだったと覚えられていたのは良かったのかも。
 彼のあまりの慌てっぷりになんだかおかしくなって、我慢できずに笑みがこぼれた。さっきとは逆の立場だ、そう思うとまたおかしくて、ここが家だったなら声をあげて笑っていたかもしれない。そんな私を見て、刑事さんは安心したようにほっと息を吐いていた。

「気にしないでください、気が付いてたのに黙ってた私も悪いので」
「え、気付いてたんですか!?」
「はい、誠実そうな刑事さんだなって印象に残ってたので」
「ほ、本当ですか? 嬉しいな、ありがとうございます」

 ふにゃりと、先程とは違う少し崩したような笑顔。人の良さが滲み出ているようなその笑顔は、彼の良い人柄を体現しているようだった。その場限りの再開かもしれないのに、彼は丁寧に名前を教えてくれた。一色都々丸さん、名前の発音が可愛らしくてつい声に出したくなる。正直にそう伝えると、一色さんはおかしそうにまた笑った。

 コーヒーを淹れ終えると、スリーブを付けたカップに手早くペンを滑らせ、お決まりの言葉を添えて手渡す。外の空気で冷えたであろう指先が、彼の疲労の滲む表情が、どうか少しでも和らぎますように。
 軽く頭を下げ、店内のカフェスペースへと歩いていく一色さんを少しの間だけ目で追いかける。スリーブに書いた「またお待ちしています」の文字と、少し不器用な桜のイラストに、彼は気が付いてくれるだろうか。気が付いて、くれたら良いな。しばらく恋愛から距離を置いていた私は、この時気が付いてすらいなかった。そんなことを考えてしまった時点で、もう恋が始まっているのだということに。

20231217


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