ココアと真白の吐息



 昨日からずっと、小さいけれど悪いことが続いていた。目覚まし時計が電池が切れで寝坊した上に少しの遅刻、お弁当を作っていたのに寮に忘れ、走ったせいかペンケースの中ではシャーペンの芯がばら撒かれていた。挙げ句の果てに夕方に行われた任務では攻撃が掠ってしまい、今でも左腕が僅かに痛む。沈んだ気分のまま廊下を歩き寮へと向かっていると、正面からの軽い衝撃と共に足元がふらりとよろめいた。

「わ、ごめんなさ……って伏黒くん」
「悪ぃ名前、怪我はないか?」
「大丈夫だよ、ありがとう」

 ぶつかってしまったのは伏黒くんだったようで、服装と装備を見る限り、どうやら彼も任務の帰りのようだ。外はまだ肌寒く、窓から吹き抜ける風が冷たく頬を撫でてゆく。まだ帰ってきたばかりなのか、僅かに赤く染まった鼻の頭がなんだか可愛らしい。

「詫びにはならないかもしれないが、これ」
「わっ、……これって、」

 コツンとおでこに当てられたのは、まだほかほかと温かいココアの缶。甘くとろける時間、というフレーズが目印の私が一番好きなやつだ。両手で受け取ると指先から熱が伝わり、じんわりと少しずつ温めた。カシュッと心地の良い音を小さく鳴らして飲み口に唇を寄せると、ふわりと甘い幸せが広がっていく。

「甘くてあったかいなぁ、私このココアが一番好きなの。ありがとう伏黒くん」
「ああ、……あまり無理はするなよ」

 ぽふ、と頭に乗せられた手のひら。暖かな体温がじわりと伝わり、視界がゆらゆらと波打つ。自分でも気がつかないうちにストレスを溜め込んでいたのだろう。硬くなっていた心がゆっくりとほどけていくように、涙がひとつぶ、ふたつぶと落ちていった。

「どこか、痛むのか?」

 突然泣き出してしまった私に目を見開くと、頭に乗った手はぴたりと離さずそのまま。もう片方の手はどうしたら良いのか分からないのか、所在なさげに変な動きをしている。心配そうにこちらを見ている優しげな眼差し、変わらずに暖かさを伝えてくる私よりもずっと大きな手のひら。甘やかなやさしさと腕の可笑しな動きの面白さに、感情がぐしゃりとまぜこぜになっていく。泣き笑いだなんて初めてかもしれない。

「ふふ、伏黒くん変な格好」
「……お前のせいだろ」

 少し呆れながらも、その声は先程よりもずっと穏やかだった。そっと頭から下ろされ伸ばされた指先が目元に触れ、歪む視界が明快になる。もう大丈夫だというように笑いかけると、伏黒くんの口元もやわく弧を描いた。

「あのね、……もう少しだけ、一緒に居てもいいかな」
「……名前の気が済むまで付き合う」
「ありがとう。優しいね、伏黒くん」

 飲みかけの缶に唇を寄せ、息を吹きかけて熱を冷ましてまたひと口飲み込む。ほんのりとまだ暖かさの残るその味は、さっきより少しだけしょっぱかった。ほう、と息を吐くと、隣からぱきりと缶を握る音が小さく鳴る。音に反応して隣を見上げると、涼しげな瞳が静かにこちらを見つめていた。

「優しいのはお前にだけ、……って言ったら、どうする?」

20210303


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