微熱、微糖、微々たる鼓動

 幼い頃、ボール遊びに夢中になる従兄弟を見て「世一はサッカーが好き?」と聞いたことがある。世一からすれば何当たり前のこと聞いてるんだと思っただろう。けれど当然のように「うん、好きだよ!」と無邪気に笑った彼のきらきらとした眼差しと、「おい凪、もう一回シュートだ!」とゴール付近を縦横無尽に駆け回る御影くんは、どこか似ている気がした。

「おい苗字! 今のシュート見たか?」
「あ、ごめん。見てなかった」
「はあ? 仕方ねえな、もう一回やるからちゃんと見てろよ!」

 「もうしんどい……つかれた……」と人工芝に溶けてしまいそうだと寝そべる凪を横目に、御影くんの足から鮮やかなシュートが決まり、ゴールネットへと勢いよく叩きつけられた。

 少し強引な感じで始まったサッカー部のマネージャー生活も、部活に入部してから一週間が経った。慣れない力仕事やルールにはいまだに苦労しているが、思っていたよりもサッカーは面白いものだった。まず、素人目線な私からしても御影くんはめちゃくちゃサッカーが上手い。それに凪も、やる気がないとはいえ動きが初心者とは思えないほど動きにキレがある。「凪はトラップが上手いんだ」と御影くんは言っていたが、トラップとは足でボールの勢いを抑える技らしい。案外器用な凪らしい得意技なのかもしれないと少しだけ納得できた気がする。

 そんな二人を中心としたチームプレーや戦略は、御影くんがキャプテンとして仕切り、上手い具合に各々の歯車を噛み合わせることができていた。初日から定期的に行うミーティングでは私の素人目線もそこそこ役に立っているらしい。「やっぱり苗字のそういう視点、結構面白いよな」と御影くんはいつも過剰評価をしてくれているけれど、私的にはまだまだ素人同然。
 けれど、ハマり始めたら勢いよくのめり込んでしまうタイプの私は、今では動画サイトで話題の選手のプレーを見るぐらいにはサッカーにに興味を持ち始めている。サッカーのルールはシンプルかつ難しい部分もあり、チームや個性によって戦略や組み合わせも様々。その組み合わせを考えるのも結構面白くて、本気で世界を目指す彼らのほんの一匙分ぐらいは手伝いが出来るのなら、案外このめんどくさい仕事も悪くないなんて少しは思えてきた。そう思えるほど、私にとってサッカーは新鮮な驚きを与えてくれるものとなり始めていたのだ。

「はい凪、ドリンクの味これぐらいでいい?」

 「むり……もう無理……」とうわごとのように繰り返す凪の元へ近寄り、クーラーボックスで冷えたボトルを頬へとひっつけると、のろのろと腕を伸ばしてきたのでそっと手にボトルを乗せてみる。想定よりも勢いよく喉を潤していく様子をじっと見つめると、こんなにも汗だくになった凪は初めて見たなと少しだけ彼の成長を感じた。
 体育でも手を抜いたり、ぼんやりと立っていたり、気がついたら勝手に休憩していたりした中学時代の凪のことを思い出すと、今との違いに成長を感じて謎に感動を覚えてしまいそうだ。こんなことを考えるから友人からも「凪くんの保護者?」と言われてしまったけれど、どちらかと言えば凪は子供よりもペットの方が合ってる思う。

「ぷは……、うま。でも、もう少し粉? 入れても良いかも」
「え、ほんと? ちょっと貸して」

 ドリンクホルダーを受け取り、そのままボトルをくっと傾けて口をつける。喉を通る少し甘めのドリンクは、たしかに凪の好みからすればもうワンスプーンほど足しても良さそうだった。

「んー、なるほど。後で足しとくね」
「ありがと」
「……お前ら、今のって」
「御影くん、どうかした?」
「…………いや、別に」

 放置されていたサッカーボールをひとつ拾い上げたまま、じっとこちらを見つめて何か言いたそうにしている御影くんを見つめ返すと、御影くんは自分でも無意識だったというかのようにハッとした顔をして目を逸らした。

「御影くんも飲む? 作ってあるけど」
「……飲む」
「はい、どうぞ」

 ドリンクを手渡すと「サンキュ」と言ってから額に浮いた汗を腕で少し拭ってから蓋を開ける。ごくりと喉を鳴らしながら勢いよく飲む姿に、それだけ彼らはハードな動きをしているのだと改めて実感が湧いた。

「……俺も、もう少し味濃いめでいいかも」
「わかった。御影くんの味の好み、まだよく知らないから詳しく教えてくれると助かるな。後どれぐらい入れたらいい?」
「あー、……あとスプーン一杯ぐらい?」
「凪と同じぐらいでいいの?」
「いいよ、任せる」
「うん、じゃあ少し足してくるね」

 「……俺のは、飲まないんだな」と言う声に、思わふ「え?」と振り返る。まるで自分のも飲んでほしい、と言いたげなその不思議な言い方に首を傾げると、御影くんはどこか気まずそうに目を逸らした。

「いや、なんでもねぇよ。ほら、早く行ってこい」
「うん、……えっと、なんかあったらすぐ呼んでね?」
「ああ、わかった」

 「これも使ってね」と御影くんにタオルを手渡し、倒れたままの凪には「タオルここ置いとくよ」と声を掛けてからその場を離れ、部室の方へと早歩きで向かう。タオルの追加と、他の部員の方へのドリンク差し入れに洗濯。インドアな私にとってはかなりきつい。けれど、作業中に見えるみんなの練習風景がなんだかすごく眩しくて、自然と「すごいなあ」と感心の声が溢れた。

 各々が練習している間に汚れてしまったタオルの洗濯でもするか、と大きめのバケツを水道に置いて蛇口を捻る。水が少しずつ水位を上げていく様子をぼんやりと見つめながら、これ毎日一人でやるのかなと今後のことを考える。流れでマネージャーになってしまったし、御影くんや他の男子たちを支えたいという献身的な子だっているんじゃないだろうか。
 しかし、ここは普通の公立学校ではなく超進学校であり御影くんのようにご子息ご令嬢も通う白宝高校だ。他の人の世話なんて焼く方が珍しいのかもしれない。友人は既に部活に所属しているし、先輩後輩の知り合いなんてほぼいない。サッカーを見ることは少し楽しくなってきたけれど、労働的には詰んだな、と気が遠くなりそうになっていると、「ねえ、聞いてる?」と頭にのしりと重みを感じてびくりと肩が跳ねた。

「っ、びっくりした、なんだ凪か」
「名前、ぼんやりしすぎ」
「それ凪に言われたくないやつ」
「というかそれ、止めなくていいの? 溢れてるけど」
「え? ……あ、うわっ、ほんとだ」
「あ、」

 凪の指摘に慌てて溢れていた水を止めようと蛇口を捻ると、逆に勢いよく水が出てしまい、そのまま防ぐことすらできず自分に向けて水飛沫が襲いかかった。やばい、と思って目を瞑った瞬間、胸元からお腹辺りまでにひんやりとした感覚が伝う。そっと瞼を開くと、服がぺたりと肌に引っ付く程度には濡れてしまった自分の姿が目に入った。

「……あー、やらかした」
「うわ、結構びしょびしょじゃん」

 せっかく部活用に着替えた体操服のシャツは、自分の不注意のせいで水が滴り落ちるぐらいにはぐっしょりと濡れてしまっている。部活の終了時刻まであと1時間はあるし、動き辛いけれどもう制服に着替えてしまったほうがいいかもしれない。寒くない時期であることだけが唯一の救いかもしれない。はあ、とため息を深く吐くと慰めのように凪の大きな手が頭をぐしゃりと乱雑に撫でた。

「ごめん、タイミング悪かった」
「全然、私がぼんやりしてたのが悪いし。着替えは他に持ってないから……とりあえず、制服に着替えてこようかな」
「んー、……名前、おれのジャージ着る?」
「え、いいの?」

 今日はきちんと持ってきたジャージに身を包んでいた凪は、着ていたジャージを既にもう脱ぎ始めていて自分はインナーだけでも平気だと言い張っている。確かに今日の気温は暖かく、風も冷たくないし運動するにも最適な気温だ。けれど、こうなったのは自分の不注意だし、動き辛くはなるけど制服に着替えたら問題はない。スカートで動くのは少しだけ面倒だけど。

「でも、凪も帰りにジャージ着たいでしょ? この上から着ると濡れちゃうし」
「いや別に平気、濡れるのも洗えば一緒でしょ。というか、…………それ、隠すためにも着たほうがいいんじゃない?」
「それ? ……あっ」

 指差された先を視線で辿ると、濡れたせいでうっすらと下着の色やラインが透けてみえていて思わず胸元を隠しながら「お、お見苦しいものを……」と後ずさる。いくら凪とはいえ、男の子に見られたという事実への照れと、やってしまったという自責の念で顔色が赤く青くと忙しなく変わっている気がした。
 どうしたものかと自分の身体を腕で抱え込むようにしゃがみ込む私と、いつも通りの無表情を浮かべたままその場で突っ立っている凪。初めて凪と一緒にいて、沈黙が続くことが辛かった。

「名前、」
「は、はい!」
「……別に何もしないって」
「ご、ごめん……そうだよね、凪だもんね」

 そう言うと凪は「……名前って、そういうとこあるよね」と私の頬を軽く引っ張り、はあ、と深くため息をついた。待って、割と痛い。意外と力入れてるなこいつ……と少しひりつく頬を抑えていると、ばさりと布で視界が覆われてうえっと変な声が出た。
 「俺、先に戻るから。それ着てから来てね」と言われ、この被せられたものがジャージであることに気が付きなんとか顔を出してから「ありがと!」と声を掛ける。既にグラウンドへと戻る凪は、こちらを見ずにひらりと片手を振った。

 ぐっと力を入れて水気を切り、タオルでなるべく水分を吸ってから借りたジャージにありがたく腕を通し、すっぽりと体全体を覆う。まだ濡れたままの体操服は気持ち悪いけれど、包まれた温もりに凪の体温を感じてどこか安心感を抱いた。ジャージからほのかに香る甘い香りと袖の余ってしまった部分に、凪も男の子なんだよなと少しだけ実感が湧いてくる。先程のことはちょっと、いやだいぶ他の人だったら気まずかったから凪でよかった。本当に。

 さっきの自分の姿を思い出してほのかに頬を赤く染めながら、放置されたままのバケツにゆっくりと力を入れて持ちあげて部室へと足を早める。ドアノブを捻って部室に入ると、誰もいないと思っていた室内に人影が見えて扉を開く手が止まった。音の鳴りかけたドアノブを慌てて両手で引き留め、そっと中を覗き込む。

「試合の時は俺が基本的にドリブルで、……いやここはコイツらにも動いてもらうべきか。凪にはこのあたりに、そんでこっから繋いで、……」

 室内には、集中した様子でベンチに座り、集中してペンをノートに滑らせる御影くんの姿がそこにはあった。沈み始めた夕陽のひかりを背に、美しくもどこか儚げな雰囲気を醸し出す様子は、年相応に笑う姿とはまた違った一面を感じてどくりと心臓が音を立てる。
 ──思い返せば、ここ数日は御影くんに驚かされてばかりだ。彼の行動に驚くその度に新しい一面を知れた気がして、今まで存在すら朧げだった御影くんという存在が私の中で色付いていく。最初は名前だってちゃんと覚えてなかったのに、心の隙間を擽られるような、むず痒い感覚になんだか落ち着かなくなってしまうのはどうしてなのか。まだその感情に、名前を付けることはできなくてそのもどかしさに靄がかかるようだ。けれど、

「……きれい、だな」

 御影くんを見て、思わずぽつりと溢れた言葉は、どこか憧れを孕んだ声色をしていた気がした。

 この後、「……あれ、苗字? んなとこで何やってんの?」と私の視線に気が付いた御影くんに声を掛けられるまで彼を見つめてしまっていた私は、いきなり声を掛けられて動揺して足元のバケツに足を引っ掛けてしまい、今度は足元がびしょ濡れになってしまったのはここ最近の疲れが出たからということにしてほしい。今日の一番の被害者は入口近くのロッカーの山田くんです、本当にごめん。

20230227

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