可愛いあの子の好きなひと



 簡素なビニール袋に包まれた菓子パンを頬張り、これは案外悪くないかもなと笑みがこぼれる。凪が食べていてずっと気になっていたそれは、少し甘ったるいけれど糖分補給にはもってこいの味だった。口の端についた砂糖を舌で舐め取り、思わず「甘え」と笑うと、ぽやんとした顔の凪と目があった。

「……そういえば玲王、苗字の好きな人の話。今日も聞いた?」

 昼休憩中の少し賑やかなクラス内、少し控えめな寝ぼけ声にじとりとした視線を向けると、凪はウトウトとしながらメロンパンをもそもそと齧って口を開いた。苗字は俺と同じクラスで、隣の席の笑顔が可愛いヤツ。凪とは中学が同じで仲が良い。そして、俺が少し前から自覚した恋心を燻らせている相手のことでもあった。

「昨日も惚気で携帯の通知ずっと止まんねえの。ゲームの邪魔って言ったら電話ならいいでしょってすぐに掛けてくるし」
「お前ら、ほんと仲良いよな」
「遠慮を知らないだけ」

 絶え間ないメッセージの通知も、気軽に押せる通話ボタンも、どちらも俺にとっては羨ましいもので。ふわふわと揺れる白い綿毛のような頭を意味もなくわしゃっと雑にかき撫でると「え、なに」と凪は不愉快そうに少し眉を顰める。そんな凪の様子を見て二人は恋だの愛だのといった関係性ではないことを再認識することができ、密かに安堵のため息を吐くのも何度目だろうか。

「もーずっとさ、横顔がカッコよかったとか、授業中に発言する声が素敵だったとか言ってて」

 ああ、知ってる。よくクラスの友人と恋バナを話しているのも聞こえてくるし、俺にもたまに話してくれる。「男の子でこんなに話せたの、玲王くんが初めてだよ」と頬を淡く染めながら笑う苗字は、恋する乙女という感じで本当に可愛いのだ。
 その相手が俺なら、と何度か言いかけたこともあるけれど。その熱視線を自分に向けて欲しいのだとアピールしようとした考えたこともあったけれど。結局まだ俺は何も言えていなくて、ただ可愛らしい彼女の様子を眺めるだけで満足してしまっていた。

「前よりもよく話しかけてくれるようになったらしくて、この前は小テストで満点取れたって好きなヤツに伝えたらいちごミルク買ってくれたんだって」
「へえ、甘いの好きだもんなあいつ」

 その言葉に、パステルカラーの小さい巾着袋にいちごミルクの飴を常備している彼女の鞄を思い出す。そういえば俺も、この前の小テストの時に髪パックのジュース買ってあげたんだ。そうだよな、苗字の好みを知ってるのは俺だけじゃないよな。

「先週は帰りが遅くなった時に家まで送って貰ったらしいし」

 先週は確か、苗字の所属する委員会活動の当番にあたる週だった。部活終わりにたまたま廊下で出会った金曜日、俺も彼女のことを家まで見送っていった。苗字の揺れる柔らかな髪を横目に、ふわりと漂う甘い香りに心臓が少しずつ早まり、少し滲む手汗を誤魔化しながら歩いた通学路は車では得られない経験だった。
 他の日に送っていった名も知らぬ男を羨み、そしてひたすら苗字の話をしてくる凪にもうそろそろいいだろと言いたくなる。どうして相棒から俺は好きな相手の恋バナを延々と聞かされなければならないんだ。残り少なくなってきたカフェラテの紙パックを飲み干し、行き場のない苛立ちを誤魔化すようにグシャリと潰した。

「それに今日の朝さ、」

 おいおいまだ続けるのかよ、お前俺がアイツのこと好きって知ってるよな!?
 思わずそう叫びたくなるような追い討ちに頭を抱えていると、凪はため息を吐きながら、「良いから最後まで聞いて」と言う。普段の面倒臭がりなコイツとは思えないほどの口数はまだ止まらない。

「今日の朝、少し切った前髪に気がついて褒めてくれたらしくて」
「ああ、そういえば切ってたな」
「少し寝坊したって話したら、いざとなったら俺が迎えに行ってやるよって笑ってたって」
「……後ろ髪、ぴょこっと跳ねてる部分があって可愛かったんだよな」

 寝ぼけていたのか、少し無防備だった朝の様子を思い出してふと笑みが溢れる。そして、そこまで話を聞いてふと違和感に気がついた。
 今の時刻は昼休み、苗字の寝癖が愛らしく跳ねていたのは一時間目の授業が始まる前までだった。予鈴が鳴る前にコスメポーチから取り出したヘアバームと櫛で奮闘している姿を見たから覚えている。──そして、その姿を見て話していたのは、隣の席に座り、会話をしていた俺だけで。迎えに行くだなんていう話の内容にも、バッチリと覚えがあった。

「……え?」
「はぁ、やっと気がついた」
「は、…………え、……マジ、で?」

 玲王、流石に鈍すぎ。
 そう言って呆れたように向けられた凪の視線にウッとたじろく。だって、仕方ないだろ。本人の前で好きな人の話をするだなんて思いもしなかったのだ。
 まだ現実を受け止められていない脳みそは、言い訳のような簡易な言葉しか吐き出してくれなくて。普段は素早く回転しているはずなのに、今は全く使い物にならなかった。
 凪は一仕事終えたと言わんばかりに欠伸を一つして、机に突っ伏し「昼休み終わるまで寝る」とすぐに寝息を立て始めた。真白の旋毛を呆然と見つめ、先程まで話していた会話をひとつひとつ思い浮かべる。あれもこれも、今までに彼女や凪から聞いた話のどれもが自分のことだったなんて。

「はぁ、……あっつ」

 あつい。暑い。熱い。ぐつぐつと爆発してしまいそうなほどの熱に侵されている。まだ夏は訪れていないというのに。クラクラとするその感覚は初めてで、じわりと心の底から湧き上がるような歓喜とよく似ていた。
 ビニール袋から取り出したペットボトルの蓋をあけ、少しぬるくなった水を試合を終えた後のように勢いよく飲み干す。早まる鼓動を抑えつけるようにシャツの胸元をぐしゃりと握って、ひとつ深呼吸をした。

「あれ、凪くんまた寝てるの?」

 ふわり、甘い花の香りが漂う。彼女によく似合う、ホワイトリリーの香り。思わず勢いよく声の方へと振り向くと、先程まで自分の思考を一色に染めていた苗字が、さっき借りた教科書を返しにきたのだとまだ新しいテキストを掲げていた。やわく口角をあげて「玲王くんはもうご飯食べた?」と微笑む彼女に、正直な心臓がどきりと跳ねる。

「あ、ああ、食べた。こいつはついさっき、昼休み終わるまで寝るって言って突っ伏したとこ」
「そっか、ゲームで聞きたいことあったんだけど……仕方ない、放課後にまた来るって連絡入れとこう」

 趣味が同じというのは、親睦が深まる要因となりやすい。俺も、同じゲーム始めようかな。単純な考えが頭をよぎり、しかしすぐに飽きる姿が目に浮かぶなと苦笑いを浮かべた。
 スマホにぽちぽちとタップして文字を打つ苗字の、俺よりも一回りは小さい手がふと目に入る。その指先が細くて白いなぁとか、桜色の爪がまあるく切り揃えられていて可愛いなとか。急に愛おしさが溢れてきて、先程までのぐらぐらとする熱さについ口元がゆるんでいく。彼女に直接、答えを聞いてしまってもいいだろうか。

「なぁ、苗字さ、」

 さっきペットボトルが空になるまで飲み干した水分はどこへ行ったのやら、カラカラに乾いてしまった喉が自信なさげな音を立てる。この後に続く言葉を言ってしまったらきっと、どう転んでも今までのクラスメイトという関係ではいられない。ついさっきまで、その距離感で良いのだと諦めていたはずなのにな。どうしたって恋心ってやつは、しぶとくその先の関係を欲しがってしまうようだった。

「なあに?」

 軽く首を傾げる様子が、身長差で上目遣いのようになる角度が、体格差を感じる机に置かれた小さな手のひらが。どれもが愛おしくって仕方なかった。形の良い小ぶりな耳元に口を寄せ、内緒話をするようにそっと手を添える。

「お前の好きな人って、……もしかして、俺?」

 吐息混じりに伝えると、まあるい瞳がいつもよりさらに大きく見開かれた。「ひ、え、……えっ?」と言葉にならない声をあげながら、耳元を小さな両手で勢いよく抑えてそのまま半歩後ろに下がる。
 なんだよ、その反応。そんなの、ずるいだろ。明らかに動揺している様子の彼女に、期待で小さく喉が鳴った。じわじわと指先から顔まで熟れた果実のように染まっていく彼女を離さぬよう、白く滑らかな素肌を痛めないように注意しながら指先を包み込む。

「なぁ、どうなんだよ」

 返事を催促する声は、情けないぐらいに震えていたかもしれない。多分、今まで彼女に見せてきた俺の一面の中で一番ダサい。
 けれど、そんなダサい俺を見て、小さくこくりと縦に首が動く。「……そう、です」と淡く色付く頬を隠すようにふいと顔を逸らす彼女が可愛くて、勢い余ってそのまま抱きしめてしまったのは許して欲しい。

「……俺も、苗字が好き」
 
 赤く染まった頬と、溶けてしまいそうな表情を隠すように彼女の肩に顔をうずめる。おずおずと背中に回された、シャツをきゅうと掴む小さな手。そんな些細なことにも心臓が音を早めるのだから、この幸せに慣れるのには随分と時間がかかりそうだった。
 浮かれきった俺と、恥ずかしいけれど嬉しいと顔を青く赤く変化させる彼女。案外お節介な相棒は、そんな二人を見て寝ぼけ眼でひそかに笑みを浮かべていた。

20230723


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