はじまりを告げるように



 初めての選択授業へと向かう途中、友人と並んで廊下を歩きながらふと隣のクラスに視線を向けた。クラスの中心の方、男女問わず数名のクラスメイトに囲まれている綺麗な藤色が見えて目を細める。御影玲王くん、この学校一番の有名人だ。
 容姿端麗、成績優秀、文武両道、彼への賛辞の言葉は数え切れないほどあるけれど、身長順に並んだときに前から数えたほうが早い私からすればそのすらりとした体躯が一番羨ましく思える。股下何センチなのかと尋ねたくなるほどの身長は、きっとモデル顔負けのスタイルだ。
 ふと、スカウトとかされたことないのかなと思ったけれど、あのリムジンでの送迎を見れば聞かずともその答えはわかった気がする。まあきっと、私には縁遠い人だなと少しずり落ちそうになっていた教材を抱え直した。





「……あ、やばい。課題のプリント置いてきた」
「ああ、明日提出のやつ?」
「うん、多分引き出しの中。先行ってて、すぐ追いつく」

 放課後、友人と昇降口へと続く階段を降りながら課題の話題なり、プリントを入れたクリアファイルを鞄へ入れていなかったことを思い出した。明日提出だから朝に焦るところだったし、話題に出してくれた友人はファインプレーだ。
 心の中で感謝を述べ、踵を返して教室へと足を伸ばす。階段を一つ飛ばしながら登りきると、普段の運動不足が祟って少し息が上がった。体育だけじゃやっぱりダメか、なんてため息を吐きながら教室のドアを開くと、突然何か壁のようなものにぶつかってぐらりと後ろに体が傾いていく。ふらついた足ではバランスを取れるはずもなく、急に受身を取れるほど反射神経も良くない。
 ――やばい、倒れる。
 思わずぎゅっと目を瞑り衝撃に備えていると、背中に温かい温度が触れて体の傾きがピタリと止まった。衝撃や痛みに襲われることもなく、不自然に傾いたまま止まった自分の体に違和感を覚えてそっと目を開くと、鮮やかな紫が見えて目を瞬かせた。

「っと、……わりぃ、苗字、大丈夫か?」
「……? え、」

 状況が飲み込めず、無意識のうちにまばたきを数回した後に、喉からヒュッと声が詰まったような音がした。目の前に、あの御影くんがいる。優しげな瞳に私の姿が映っている。
 その事実だけでもひっくり返ってしまいそうなのに、あまりにも近い距離にある整った顔にじわじわと頬が熱くなっていく。花のような良い香りがして、御影くんって匂いまで素敵なのかと変なところで感心しないと心が保たなかった。

「おーい、大丈夫か?」

 安否を確認するような言い方に、先程の衝撃を思い出し、目の前の彼をもう一度見て今の自分の体勢に気が付く。まだ少し傾いたままの体、背中に触れる温度、そして間近に見える御影くん。おそらく、私は教室に入ろうとしたところ御影くんにぶつかり、そのまま倒れそうだった私を支えてくれたのだろう。
 しかし、この体勢がよくなかった。まるで背に回された腕はぐっと強く私を抱き留め、まるで今から抱き寄せられるかのように錯覚してしまいそうで。
 動揺しすぎて「み、み、みみ」と名前すら呼べずに唇が震えてしまう。「みみ? 耳がどうかしたか?」と優しく問いかける彼に、「な、なんでもないです……」と手で顔を覆いながら答えたけれど、恥ずかしすぎて穴があったら入りたいぐらいだ。

「ご、ごめんね御影くん。その、ちゃんと前見てなくて」
「いや、俺こそ急にドア開けて悪ぃ。苗字はどっかぶつけたりしてねぇ?」
「大丈夫、……御影くんが支えてくれたから」

 ありがとう、と言うと「なら良かった」とにこりと笑う様子にほっとため息を吐く。動揺した様子に変な女だと思われなくて良かった。多分、御影くんはそんなこと思わないだろうけど。
 ……それにしても、いつまでこの態勢のままなのだろうか。いくら御影くんが男子とはいえ、支えたままの状態はキツいに決まってる。それに、私もずっとこのままでは困る。この距離で御影くんのドアップに耐えられるほどの耐性は生憎持ち合わせていないし、私の体重のかかった腕も心配になってきた。

「……あの、御影くん」
「ん? どうした?」
「その、……そろそろ、手を離してもらっても……?」

 もうフラつきもないし、大丈夫だよ。それに、御影くんの腕に負荷がかかっちゃうし。
 そう伝えると、御影くんは少しだけ眉を顰めて口を一文字に結んだ。何か変なことでも言っただろうかと困惑して目を泳がせると、心なしか、背に回された手に力が入った気がする。
 もう一度声を掛けようとしたその時、支えられていた手にぐっと押されて体が前へと傾いた。急なその動きについていけず、目の前の真白の制服へ向かって引き寄せられる。先程までよりもずっと濃い、多分御影くんが付けているであろう香水の香りに包まれて思わず目を見開いた。

「お前一人ぐらい、余裕で支えられるけど」

 少し拗ねたようなその言い方と、回されたままの腕がもっと近付けと言わんばかりにぎゅうと力を込めるから、どうして良いかわからなくなる。
 だって御影くんとはほとんど接点もなくて、私が覚えてる限りでは、去年同じ委員会だったというだけ。クラスも違ったし、中学だって違う。そんな彼と、どうしてこんな状況になっているのだろうか。たまたまぶつかってしまっただけ、それだけなのに。
 抱きしめられているという羞恥よりも先に困惑が勝り、あたたかな腕の中から様子を伺うように御影くんを見上げる。ぱちりと目が合うと、すぐに視線が逸らされ、少し泳いだ後に私の肩へと頭がうずめられた。さらさらの髪が首元に触れて少しくすぐったい。

「あー、……可愛い。なんでそんなに可愛いの、お前」
「え、……え?」

 額を肩にぐりぐりと擦り付けるように動かし、“可愛い”と繰り返す御影くんに頭の中はハテナで埋め尽くされた。何かが彼の琴線に触れたのだろうか、こう、身長差からくる庇護欲とか。
 御影くんはしばらく同じ言葉と行動を繰り返し、満足したのか顔を上げると「流石に無防備すぎねぇ?」とまた眉を顰めた。いや、無防備というよりも、まだ訳がわかっていないだけなんですけど。

「今日はこれぐらいにしとくけど、明日から覚悟しとけよ?」

 呆けた顔の私にニヒルな笑みを浮かべると、御影くんはちゅっと可愛らしいリップ音を残して私を解放した。首元に残る柔らかな熱がふれた感覚に、ドッと心臓が飛び跳ねる。いま、わたし、首にキスされた?
 突然の宣戦布告も、ただの同級生にするはずもない接触も、ずっと抱きしめられていたことも。全部の意味がわからなくて教室から出ようとしていた御影くんの制服の裾を引っ張った。

「ま、待って御影くん!」

 さっきからドクドクと鳴り続けている私の心臓も、忘れられない感触も、すべてそのままにして立ち去るなんてずるい。この際知り合いなのにだとか、同級生なだけだとか、関係性なんて二の次だ。ただ、御影くんの気持ちが知りたい。ただの気まぐれなら、早めにそうだと言って欲しかった。
 ドアにかけられた手が止まりると、「あ、言い忘れてた」とわざとらしい声を出して振り返る。愛おしさを滲ませた目を細め、楽しげに口元が弧を描いた。

「俺、苗字のことが好きだ」

 ――多分、お前が想像するよりも前から、ずっと。
 ふわりと微笑み、颯爽と去っていく後ろ姿を呆然と見送ってから、少しずつ力が抜けてその場にへたりと座り込んだ。開いたままのドアから暖かい風がやさしく吹き込み、ひらりと薄紅の花びらを運んでくる。教室に響く下校時刻のチャイム音が、何かの始まりを告げているかのようだった。

20230319


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