呼吸さえも飲み込んで



 電気ポットがお湯を沸かす、小さな音だけが室内に響いた。この部屋がこんなに静かなのはとても久しぶりで、それはきっと、初めて御影くんと二人きりになったからかもしれない。

「凪のやつ、遅いな」
「……そうだね」

 サッカーの特集が組まれているスポーツ雑誌をつまらなそうにめくり、ぽつりとそう言うとまた形のいい唇は閉ざされた。カーテンの隙間から日差しが入り込み、絶好のお出かけ日和だと太陽が主張している。
 普段は誠士郎と御影くんと私の三人で、学校から程よく近い私の家に集まってはサッカー部の話をしたり、たまに学校の課題を共にこなしたりしていた。そして今日は、三人で新しいスパイクでも見に行こうかと話して集合場所を私の家にしていたはず、なのだが。

「ハァ、あいつ、絶対まだ寝てるだろ」
「まあ、この時間に返信がないってことはそういうことだよね」

 約束していた時間は午前十時、現時刻は午前十一時過ぎ。どれだけ待っても、メッセージをスマホから送っても、電話をしても一切返事がない。おそらくまだ、一人夢の中を漂っているのだろう。この事態を予想して「前日は私の家に泊まっておく?」と進言していたのに、御影くんが「幼馴染とはいえ、それはまずいだろ」とその案を拒否したのだ。幼馴染だからお互いの家に行くのは慣れているし、泊まったことだってあるのに。昨日は両親が居なかったから、学生同士だけでは危険だと判断したのだろうか。「じゃあ御影くんの家に泊まったら?」と勧めるも、「泊まりの準備めんどくさい」と誠士郎が一蹴したことによりこの話は幕を下ろした。

「やっぱり、泊まらせておくべきだったんじゃないかな。うちなら誠士郎の着替えもあるし」
「……幼馴染ってそんなもん?」
「そんなもん、って?」
「お互いに家に泊まったりするとか、普通はしないだろ」
「他の人はわからないけど、私達は小さい時からこんな感じだからね」

 昔からの習慣というものは、あまりにもそれが普通≠キぎて周りとは違うことに気が付かないこともある。きっと、私と誠士郎の関係性は普通≠フ幼馴染ではないのだろう。けれど、私にとってはこれが普通だし、誠士郎にとってもそうだから今更変える方が難しいというものだ。要約してそのことを伝えると、御影くんは少し複雑そうな、不服そうな表情を浮かべて「そっか」と小さく呟いた。

「多分誠士郎が起きるの昼過ぎになると思うし、何かお昼ご飯に作ろうか?」
「いや、そこまで世話になるわけにはいかないって」
「遠慮しないで、材料ならあるし」
「いやでも、……ッ、と」
「うわ、」

 キッチンに向かおうと立ち上がった私と、それを止めようと私の腕を掴もうとした御影くん。お互い同時に立ち上がってしまったことでバランスが崩れ、衝撃に備えて目をギュッと瞑ると、どさりという鈍い音と共に肩にじわりとした痛みが広がった。
 さらりとした、紫のベールが降り注ぐように綺麗な御影くんの髪が頬をくすぐる。瞼をそっとあげると、僅か数センチ、少しでも動けば触れてしまいそうなほど近くに整った顔立ちが見えた。そしてじわりと触れるあたたかな体温に、頭をぶつけないように片手で守ってくれたことを理解した。こんなに近くで御影くんを見たことなんかあるはずもなくて、きめ細やかな肌と美しい瞳に目が奪われてしまう。人が綺麗なものを目にする時に、感嘆のため息を吐いてしまう気持ちが今なら分かる気がした。

「……なあ、名前」
「ぁ、っ」

 そう、見惚れてしまっていただけだった。なのに、目の前で私の名を呼ぶ、吐息混じりの甘い声が私に現実を突きつけてくる。いま私の目の前にいるのは、同じ歳のとてもかっこいい一人の男の子だということを。触れそうな距離の唇が震え、緊張から音にならないような声が喉からか細く鳴った。頬にするりと触れた指に、まあるい瞳が蕩けてしまいそうなほどに熱を帯びた視線に、劣情を感じてしまいそうで。
 何か、言わないと。そして、一刻も早く離れないと。そう思ってはいるのに体はいうことを聞いてくれず、ただ、その時を待ち望むかのように動きを止めていた。

「…………ごめん。嫌なら、抵抗して」

 ──嫌なんて、言うはずがない。だって本当は、御影くんが私のことを好いてくれてるんじゃないかって思う瞬間が何度かあったから。君じゃなかったら、誠士郎を待つ為とはいえ二人きりになんてならないんだよ。

「あの、わたし、っ」

 本当は、君のことが好きなの。そう応えようとした言葉は声になることもなく、唇ごと飲み込まれた。ゆっくりとやわく啄み、そして熱い舌先がくすぐって先へ先へと入り込もうと蠢く。その先を想像できないほど、私はもう幼くなかった。

20230207


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