たった二文字の言葉が足りない



 隣の席の凪くんは、何故かいつも物理的に距離が近い。お昼ご飯を食べようとすると「美味しそう、一口ちょーだい」とあーんをねだってくるし、「苗字の文字丸っこいね」とノートを覗き込んでくる時もある。大抵の授業は寝ている彼だが、その寝ている間の体勢でさえ、たまに船を漕ぎながら私の席の方へとがくんと首を降っているときがあるぐらいだ。

 もしかして私のことを……? と期待した時期もあった。ほんのちょっとだけ。けれど彼は一切私に向けて「かわいい」や「好き」に近しい言葉を吐くことはない。一度ふざけて「凪くんって私のこと大好きだよね」と言ったことがあるが、その時は「一緒にいて楽なんだよね」という返答だった。
 楽って何、家族みたいな感じ? と私が怪訝な顔をしていたからか、もう一言「うちにあるサボテンに近い」と付け足していたが何のフォローにもなっていない。というかサボテンって何、私そんなトゲトゲした性格でもないと思っているんですが。その日は凪くんに対してちょっとだけ刺々しい声で接してしまったのは君のせいだよと言いたい。元から私がそう言うタイプなわけじゃないんだ。

 だからこそ、今ではやたらと距離の近いでかい弟のような感じで接している。彼もきっと話しやすい友人、もしくは単なるお隣さんぐらいで接している筈だ。

「ねえ、今日のお昼何持ってきたの?」
「サンドイッチとポタージュスープ」
「へえ、そうなんだ」
「聞いただけ?」
「聞いただけ」
「なんだ、じゃあ今日は一口あげない」
「えー、ほしい。ポタージュのクルトンだけ食べたい」
「わがままボーイか」

 そんな凪くんと軽口を叩き合いながら、今日もお昼休みは結局一緒にご飯を食べた。凪くんはいつものローテの隠密パンの残り、私は先程言った通りサンドイッチとポタージュ。サンドイッチはハムチーズ、ツナレタス、たまごと三種類を用意した。昨日の夜の私は結構頑張ったと思う。隠し味のマスタードもピリリと効いて美味しく出来ていた。ポタージュは市販のやつを溶かしただけだが、それでも大手企業の作るものはとても美味しい。お気に入りの木製カトラリーでくるくると混ぜながら飲むこの時間は幸せだ。

「苗字」
「なあに」
「おれもスープたべたい」
「咀嚼めんどくさいんじゃないの?」
「スープならいける」
「さっきクルトン食べるって言ったじゃん」
「うん、クルトンも食べたい」
「……仕方ないなぁ」

 結局私は、自分よりも随分と大きなこの男の懇願に弱いらしい。可愛らしい顔立ちということも相まって、だるんと気だるげにこちらを見る姿はどこか愛くるしい動物のように見える瞬間があるのだ。一口分スプーンでスープを掬い、雛鳥のように口を開けて待つ凪くんの元へ溢れないように運ぶ。二つほど入れたクルトンは仕方ないからオマケしてあげた。

「ん、うま」
「よかったね、市販だけど」
「最近のインスタントは進化してるね」
「私の作ったサンドイッチも食べる?」
「いらない、消化めんどくさい」
「ほんと我儘だなこの子」

 そんな凪くんとの学校生活が随分と板についてきた頃、たまに私のことを「万年寝太郎のオカン」やら「凪の保護者」と呼んでくる人が増えた。それは同じクラスの友人だったり、隣のクラスの顔見知りだったり。先日は担任の先生からまでも「お、苗字。今日も凪の保護者やってるな」と言われてしまった。違います、彼の距離が近しいだけでお世話もしてないです、と言うと「仲が良いなぁ、青春だな」とケラケラと笑われてしまった。なんでだよ。

 そして遂には、今朝の登校中に見知らぬ他クラスの男子から「あ、あの子変人凪誠士郎の彼女じゃん」と言われているのを耳にしてしまった。どこまで伝わってるんだよ凪くんと私の情報は。しかも何一つ正しくないし、訂正してもさらに拗れてしまいそうなところが面倒臭い。高校生なんて色恋やら関係性やらに色めき立つお年頃、私だってあの子とあの人付き合ってるらしいよなんて聞いたら少しは興味を持つ。人の噂も七十五日と言うし、暫くは視線が煙たいけれど放っておくのがベストだろう。

 教室に着くと、クラスメイトから生暖かい視線がちくちくと刺さってなんだか気まずい。げっそりとした表情を浮かべたまま席へと向かうと、凪くんは相変わらず眠たげにあくびをしながら私に手をひらひらと振った。今日はギリギリまで寝てたのか寝癖がひどい。ある意味似合ってるし、指摘してあげないけど。

「あ、苗字おはよ」
「……おはよ」
「なに? 機嫌悪い?」
「いや別に、……凪くんはいつも通りだなって思って」
「ああ、噂のこと?」
「え、知ってるんだ」

 色恋の噂なんてちっとも興味なさそうな凪くんが私たちの噂を知っていることに驚き、思わず持っていた鞄がどさりと床へ落ちる。いつもと同じのっぺりとした無表情に近い顔で「俺と苗字が付き合ってるって噂のことでしょ」とけろりと言うのだから私の耳がおかしいのかと思った。

「凪くん、そういう話に興味ないから知らないかと思った」
「別に、めんどくさいし普段はすぐ忘れる」
「まあそうか、当事者なら知ってても当然か」

 そりゃそうだ、他人に興味なくたって自分が標的ならば多少は気にするだろう。少し意識しちゃって、目が合った瞬間に心臓が跳ねてしまったことが憎い。凪くんとはそういうのじゃないんだから、でかい弟、いやペットとかそんな感じ。しかし災難だよね、とため息を吐きながら椅子を引いて座ると、じとりとした視線が横から刺さった。

「ねえ、災難って何が?」
「いや、私達が付き合ってるなんて勘違いされて災難だよねー、って」
「なんで?」
「え、だってそんな関係じゃないし、……凪くんだって私とそんな関係だって勘違いされてるの嫌でしょ?」
「……俺、嫌なんて言ってないけど」

 凪くんの予想外の返答に引き出しの中に教材を入れていた手が思わず止まり、「……え?」と困惑に満ちた声が溢れた。嫌なんて言ってない、彼はそう言った。つまりそれは、私と勘違いされても良いってこと?
 そこまで考えて、ふと初期の凪くんの態度への勘違いを思い返した。近しい距離も、甘えるような態度も、全部全部好きなんて気持ちじゃなかった。彼は素でこういう性格で、私に友人として気を許している。だからこそこの距離感でも恋心なんて感じることなんて一切なくて、めんどくさがりやな彼が恋をすることすら考えつかない。
 だから、今回もきっとそうだ。否定するのが面倒で、嫌と言って否定するのも面倒。さっき考えていた私の方針と同じで、否定よりも時間の経過を待つ方を彼は選んだだけだ。

「……なるほどね、私も同じだよ」
「え、そうなの?」
「うん、凪くんと同じ気持ち」

 大丈夫、君の意志は分かってるよ、と言う気持ちを込めて目を合わせ頷く。勘違いしないし、この距離感だって私も悪くないと思っているから。すると、凪くんは怠そうにしていた身体を起こし、私の方を向くと珍しく真面目そうな顔をしてもう一度問いかけた。

「本当に? 苗字も俺と同じ気持ちなの?」
「うん、本当だってば」

 こくりと首を縦に振ると、「……うれしい」とこれまた珍しく凪くんは少し頬を染めながら口角を上げた。多くを語らずとも意思疎通が取れたことがよほど嬉しかったのか、周りに小さな花でも舞っていそうなぐらいの喜ぶ様子に私まで笑顔が溢れる。凪くん、たまに会話すら面倒そうだもんな。

「ねえ、名前って呼んでも良い?」
「え、まあいいけど。でも私は凪くん呼びのままだけど良い?」
「……なんで?」
「下の名前、誠士郎って長いじゃん」
「…………まあ、今はいいか」

 ずっと苗字と呼ばれていたから違和感はあるが、友人からは基本的に名前と呼ばれているので問題はない。けれど凪くんがそんなことを言うだなんて思わなくて少し驚いた。男子から名前を呼ばれることは新鮮だったけれど、凪くんだったら別に気にならないかと了承を返す。そうするとまた嬉しそうに花を飛ばすのだから、今この瞬間だけは凪くんが少女漫画に出てくる主役の男の子みたいに思えた。ほんとに一瞬だけど。

「名前、これからもずっとよろしくね」

 そう言って柔らかな笑みを浮かべた凪くんと、早く噂消えないかなと思いながら「改めて言うとなんか変な感じだね」と言いながら頷く私。お互いに穏やかに微笑んで話しているが、全く違うことを考えているなんて思いもよらなかった。
 そして、何故かこの時には思い浮かばなかったのだが、凪くんは普段から言葉が足らず、私は脳内で勝手に考えをまとめて一人で完結する節があった。二人が盛大なすれ違いを起こしていることに気がつくのは、とあるお節介な御曹司の介入があってからとなったらしい。

20230302


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