暑くなったのは君のせいだ



 七月の半ば、午前授業で終わった今日は最高気温が三十五度近くになるらしい。じわりと汗ばむ首元に、最近購入した持ち運びできるタイプの扇風機を当て「暑すぎて溶けそう……」と弱音を吐きながら昇降口へと向かう。せっかくの早く帰れる日も、こんなに暑いと何もやる気がなくなってしまう。車を呼んで、帰りにアイスでも買おうかな、とぼんやりとしながら階段を降りていると、ちょうど良いところに見覚えのある後ろ姿が目に映った。にやりと笑って軽やかに階段を駆け降り、背中へ向けて手を伸ばす。

「玲王くん!」
「うお! ……びっくりした、名前か。急に飛びつくなよ」
「えへ、お疲れ様。玲王くんも今帰り?」
「そ、今日は部活ないからな」
「へえ、そうなんだ。ね、良ければ一緒に帰りませんか?」

 久しぶりに一緒に帰りたいな、なんて上目遣いでおねだりをしてみる。けれど玲王くんには私の甘い考えなんてお見通しなようで、「どうせ暑いから家まで送ってもらいたい、って魂胆だろ」と頭をぐしゃりと撫でられた。

「ちぇ、バレてたか。でも一緒に帰りたいなってのは本当だよ? 最近玲王くんとゆっくり話せてなかったし」
「はいはい、ありがとな」

 今日凪さんは? アイツはとっくに帰った、なんかゲームのイベントがあるらしいぜ。
 そんなありふれた会話を続けながら、陽が差す校舎の外へと歩き出す。じりじりと照りつける太陽は乙女の大敵だが、先程教室でスプレータイプの日焼け止めを塗ったので対策は完璧だ。日傘もいいけれど、腕が疲れてしまうので最近はもっぱら日焼け止めに頼ってる。友人がおすすめしてくれた、ちょっと良いお値段のするやつ。

「というか、俺今日徒歩なんだよな」
「えっ、玲王くんが徒歩!?」
「なんだよ、俺だってたまには歩いて帰るし」
「いや、すごいびっくりした。だってずっとリムジン通いだったじゃん」
「まあ、それもそうだな。最近は凪と帰る時に歩いたり、自転車にも乗ったりしてる」

 へえ、そうなんだ。と返しつつも、玲王くんが自転車に乗るところがあまり想像つかなくて、小さい頃の三輪車に乗る玲王くんを思い浮かべてちょっとだけおかしくてにやける顔を抑える。そして、それと同時に凪さんとなら玲王くんはなんだってするんだな、っていうのが伝わってきて少しやきもちを焼いてしまった。
 昔から玲王くんは優しくて、面倒見が良くて、そして誰よりも私のことを優先してくれてた。ママやパパも私のことをとっても可愛がってくれているけれど、それを上回るぐらい、玲王くんの中心に私がいるような感覚を覚えるぐらいには可愛がられていた自信がある。
 けれどそれは成長していくにつれて段々と変化していって、高校生になった今、玲王くんはみんなの人気者で、既に誰もがその優しさを知っていた。私だけが知っている、私だけの玲王くんはもう遠い昔の記憶のようだ。

「……なんか、遠くなっちゃったな」
「ん、何が?」
「ううん、なんでもないよ」

 暑いしだるいし、私も家の車を呼ぼうかなと思っていたけれど、玲王くんと一緒に帰れるなら歩いて帰るのも悪くない。汗ばんだ制服を誤魔化すように扇風機の出力を一段階上げた。

「そういえば、今度試合やるから見に来いよ」
「えー、どうしようかな。いつあるの?」
「次の土曜日。俺と凪の天才的プレーを見せてやるからさ」
「ふふ、自分で言っちゃうんだ」
「事実だからな」

 俺と凪の二人でなら世界だって夢じゃない、そう語る玲王くんの無邪気でまじりっ気のない笑顔が私はとても好きだ。今まで何をするにも当たり障りなく、そして飽き性な玲王くんがやっと見つけられた大きな夢。玲王くんのパパやママ、周りの大人達が無理だと思っても、きっと玲王くんなら夢を叶えるんだって私は信じてる。
 だからこそ、凪さんが玲王くんにとっての宝物なんだというのはとても納得する言い回しだった。けれど、凪さんの話ばかりされるとやっぱり心の中がもやもやとした気持ちで埋め尽くされていってしまう。もう私だって高校生なんだし、玲王くんにはわがままなところ、あんまり見せたくないのに。

「おい、名前。さっきからどうした?」
「…………なんでもない、」
「んなわけないだろ、ずっと暗い顔してる」
 
 俺に誤魔化しが効くとでも思ってんのか? と私の頬を骨張った指が優しくなぞる。やっぱり、玲王くんにはなんでもお見通しだ。昔からずっとそう、いつだって玲王くんは私の変化に一番に気がついてくれる。どんなに些細なことでも、自分が気が付かないようなことだって、全部全部、溢してしまった感情さえも拾い上げてくれるのだ。

「わかった、お前凪に嫉妬したんだろ?」
「…………してないもん」
「俺に嘘は効かねえよ。それにほら、いつもの癖が出てる」
「うそ!」

 いつもの癖、と玲王くんが言っているのは私が嘘をつくときに指先で髪の毛を弄ってしまうという無意識の癖のこと。でも今日は暑いからポニーテールにしていて、前髪も後れ毛も触ったりしていない。反応してしまった後にその事に気がついて、カマをかけられたのだと気が付き頬を小さく膨らませた。

「……いつもの癖、やってないじゃん」
「ばーか。カマはかけたけどさ、お前のことなら癖がなくたって分かるよ」
「…………玲王くんは、ほんとにずるい」

 茹だるアスファルトを見つめ、重くなってきた足取りをぴたりと止める。煩く鳴き続ける蝉の音にかき消されるぐらいの声量で、先を歩く玲王くんの背中に向けて「……私だって、玲王くんに構って欲しいのに」と本音をぼそりと呟いた。今更何を言ってるんだ、玲王くんは私だけの王子様はもう卒業したというのに。幼い頃から抱え続けた恋心は、きっと私だけが拗らせたまま。ため息を一つだけ吐いて、気持ちを切り替えるために頬をぱちんと手で挟んで音を鳴らすと、急に首筋にひんやりとした感覚がして「ふわっ!?」と変な声が飛び出した。

「な、なな、なに!?」
「ふは、! めっちゃ変な声出たな!」
「ちょっと玲王くん!」
「ごめんごめん、これ名前の分な」

 いたずらっ子のように笑う玲王くんが持っていたのは透き通った水色の瓶が二つ。どこか懐かしさを感じるそれは、最近飲む機会もほとんどなかったラムネの瓶だ。どうしたのかと聞いてみると、「今そこで買ってきたんだよ」と少し古めかしい店を指差す。玲王くんが片手で器用にビー玉をぐっと押し込むとしゅわりと炭酸が弾けた。

「ほら、飲むだろ?」
「…………飲む」
「ん、久しぶりに飲むと美味いな」

 お店近くの壁に寄りかかって、二人並んで瓶を傾ける。舌の上でぱちぱちと踊るラムネは、程よい甘さとキンとするような冷たさで頭を冷やしてくれるかのようだった。「ありがと」と小さく呟くと、玲王くんは目を細め、私の頬に先程よりもゆっくりとした手つきで触れた。

「なあ、さっきのことだけどさ」
「……うん」
「凪に嫉妬した? って聞いたの、あれ半分はそうだったら良いなって気持ちで言ったんだ」
「うん……、え?」
「お前ならこの意味、わかるよな?」

 木陰になったアスファルトに、瓶から水滴がぽたりと落ちた。穏やかに私を見つめる凪いだ瞳が、優しくて甘い熱を帯びている。その意味に気が付かないほど私は馬鹿じゃなくて、玲王くんはそれをわかった上で、答えを私に言わせようとしている。
 ──本当に、ずるいひと。けれど、私はずっとそんな玲王くんのことが好きで、彼以外はどうしたって考えられなかった。ずっとずっと、隣で笑っていてほしい。そばにいて、離れないでいてほしい。わがままな私を「しょうがないな」って笑って受け止めてくれる、私だけの王子様にもう一度なってほしかったの。

「……私ね、れおくんが好き。ずっと、大好きなの」
「うん、知ってる」

 俺も、ずっと前から名前が好き。
 なまぬるいけれど優しい風が優しく頬を撫で、からんとビー玉が涼しげな音を奏でる。この上気した頬は、暑さのせい。そんなすぐにバレてしまうような言い訳は、啄むような口付けに飲み込まれていった。

20230224


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