朝焼けと薄紅の残り香


 一話目の 朝焼けと春の花 の骸さん視点。この話単体でも読めます。



 日本には、桜という春を彩る花がある。昔見た童話に出てきたのか、人づてに聞いたのか、それとも何かの映像で見かけたのか。もう覚えてすらいないが、ただ、淡い桃色に揺れるその花弁を美しいと思ったことだけは、微かに記憶の片隅に残っていた。

 まだ少し冷たい風が頬を撫で、閑静な住宅地にコツコツと革靴の音だけが響く。微かに薄暗い空にはおぼろげな月が浮かび、まるでベールのようにあたりを照らしていた。日本の四季は諸外国と比べ、随分と目に見えてわかりやすい。ひらりと花びらが手のひらに舞い落ち、音もなくすり抜けていく。なんの変哲もない平凡的な街、それがこの街の印象だった。

 特に見回るところももう無いかと近くの公園に入り、桜の木が覆いかぶさるような場所にあるベンチへと腰掛けた。段々と明るくなってきた空に淡い色合いがよく映えている。
 もう少しここで、予定の時間まで過ごしても構わないだろう。手持ち無沙汰にならぬよう文庫本を取り出し、春風に掬われてたまに落ちる髪の束を耳にかけてはゆるりと読み進めた。そして十分ほど経ったぐらいだろうか、視線を感じてふと顔をあげると、その方向は公園の入り口近く。案外近い距離のそこには、こちらを見つめる一人の少女がいた。

「僕に何か御用ですか?」

 声を掛けると、ぱちり、まあるい瞳がゆっくりと瞬く。長い睫毛が伏せられて影を作り、透き通るような瞳がこちらを伺うように美しい髪の隙間から覗いた。

「すみません、……あまりにも綺麗で見惚れていました」
「ほう、.......クフフ、正直なお方だ」

 素直に口を滑らす様子に思わず笑みがこぼれる。手招きして隣に来る様に伝えてみると、疑う様子もなくこちらへと歩みを進めた。少しだけ歩くスピードが早いのは癖だろうか。無防備な、いたって普通の少女だ。自分との間に一人分ほど隙間を開けて隣に座る小さな体躯、自分よりも細い線に男女の性差を感じてわずかに目を細めた。

「それ、何という本ですか?」
「『夢十夜』です」
「あ、……たしか、夏目漱石の」

 異国の風貌である僕が日本文学に目を通す様が珍しかったのか、小さな文庫本の表紙をまじまじと見つめている。正直話の内容はさほど頭に入っていないというのは言わぬが花というやつだろう。
 少し幼さの残る顔立ちに、己よりも頭一つ分は低い目線。歳は同じくらいか、はたまた年下か。鮮やかな胸元のリボンとエンブレムから、すぐ近くの中学に通っているのだと察した。

「あの……私の名前は、苗字名前と言います」

 淡く儚い少女は、僕の名も教えて欲しいと乞うた。六道骸、自分で名付けたその名を教えると、少女は嬉しそうに、そして少し珍しそうにその音の響きを繰り返す。ゆっくりと紡がれた自分の名は、随分と優しくて、穏やかな色をしていた。
 名を呼ばれた、たったそれだけのことなのに、僅かではあるが音を鳴らした自分の心臓に戸惑いが隠せずに大きくきらめく瞳から目を反らした。じわじわと心を侵食されていくような、甘い痺れが走る。
 ──これは、この感情は。

「…………それでは、僕はこれで」

 理解してしまう前に、ここから立ち去りたいと思った。そういった感情は不要だと、随分と前から思っていた。だからこそ、真っ直ぐに見つめてくるあの瞳から逃れたかったのに。

「あの! ……また、会えますか?」

 ぴたり、歩み始めた足が止まる。熱を帯びたような、甘い声色に引き止められた。一度振り返ってしまうと、諦めがつかないだろう。しかし、呼び止めたのは彼女の方だ。
 踵を返し、真っ直ぐに彼女を見つめる。黙ったままの僕に不安になったのか、わずかに揺れる瞳が感情を揺さぶる。――ああ、やはり、欲しい。

「ええ、きっと。……すぐに、会えますよ」

 近いうちに、また会いに行きましょう。今度はこんな形ではなく、どうか最善の形で。
 口角を僅かにあげながら意識を溶かすと、そこにはもう、誰の姿もない。仄暗い空間にわずかに残る桜の残り香だけが、先程の時間が夢ではなかったのだと伝えていた。

「また、いずれ」

 きっと近いうちに来たるその日を思い浮かべ、甘くも毒のような胸の疼きに身を委ねながらうっそりと笑った。

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