鮮やかな手のひらで返して



 事務所のドアが開く音に目線を上げると、柔らかな花の香りがふわりと漂う。この香りはおそらく彼が来たんだろう。やさしげな笑顔を思い浮かべていると、予想した通りの声が聞こえてきて思わずやっぱり、と出かけた音を飲み込んだ。

「おはようございまーす、……あれ、今日は名前さんだけ?」
「おはようございます、みのりさん。プロデューサーさんは現場へ直行、賢くんは風邪でお休みみたいですよ」

 季節の変わり目だから心配だね、と眉を下げ、いつもより少しラフな格好をしたみのりさんが視界に映る。今日Beitのメンバーはレッスンだったはずだから、それに合わせた服装を選んだのだろう。ジャージだって素敵に着こなしてみせるのだから、アイドルって本当に凄い。

「名前さんも体調には気をつけてね。昨日恭二も少し風邪気味だって言ってたし、事務所内でも流行らないように気をつけないと」
「ご心配ありがとうございます、みのりさんも気をつけてくださいね」

 みのりさんの言うとおり、一度風邪が蔓延すると大所帯になってきた事務所内では大変なことになりそうだ。対策として、事務所にマスクやアルコール消毒を購入しておくのもありかもしれない。プロデューサーさんが帰ってきたら提案してみよう。
 先に通販サイトで備品の値段や在庫をチェックしておこうかとパソコンを操作していると、ソファの方から何やら視線が刺さるような気がしてマウスのクリック音がやけに大きく響く。そっと視線の方向へと目を向けると、バッチリとみのりさんと目が合った。

「えっと、……どうかしましたか?」

 何か用事でもあっただろうかと首を傾げてみると、みのりさんは少し笑いながら「ごめん、つい見つめちゃった」と言った。
 あまりにもクスクスと楽しそうに笑うから、急に変な寝癖や寝ていた跡とかが付いてないか不安になって、慌てて手のひらで髪の毛や顔を覆い隠す。もしかしたら、今日の朝ギリギリで家を出たから気が付かないまま来てしまったのかも。

「な、何か、私に変なところでも……?」
「違う違う、そんなことないよ! ただ、」
「ただ……?」

 少しだけ考えを巡らすように目線を下げ、綺麗な髪の毛がさらりと揺れる。一度目を瞑って、開いて、花の咲くような笑みを浮かべながらみのりさんは口を開いた。

「名前さんと二人きりになるの、初めてだなって思ったら嬉しくて。つい、頬が緩んじゃった」
「…………えっ?」

 二人きり、初めて、嬉しい。
 予想もしてなかったフレーズが並んで、頭の中に宇宙の映像が一瞬通り過ぎていった。ちょっとまって、今何の話してたっけ?
 キーボードを叩く指が止まって、ぎこちなく瞬きを数回繰り返す。みのりさんの方を見ると、彼は変わらずまっすぐと私を見ていた。

「ふふ、ごめんね。混乱させちゃった?」
「び、っくりしました。……変な言い方しないでくださいよ」

 からからと笑う様子に、どうやら揶揄われていたのだと分かって安堵のため息がこぼれる。紛らわしい言い方はやめてほしいと思ったけれど、普通に考えれば“そういう意味”ではないことは明白だ。勘違いにも程がある。
 都合よく考えてしまった頭にまた一つため息を吐いて、またタイピングの指を動かし出す。でも、ちょっとだけ残念だなんて。そんな気持ちには知らないフリをしたかった。それなのに、みのりさんは私の様子なんて意に介さないかのように話を続けた。

「変な言い方のつもりはなかったんだけど、そのままの意味で伝えたつもりだし」
「……そのままの、意味?」

 ぎしり、少し古びたソファの音が鳴って、次いで私の手元に影が伸びる。花の香りがぐんと強くなって。

「名前さんのこと、もっと沢山知りたいな」

 ジャスミンの心地よい香りが、僅かに強くなる。いつのまにか緩く絡めとられた指先は、その言葉が含む意味をゆっくりと、けれど確実に、ストレートに伝えてくるようだった。

20240303


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