とろけた星でも構わない



 少し冷えたベランダの壁にもたれ掛かりながら、マグカップの縁に口を付ける。ふぅと吐き出した息が空気に溶け、夜半の空に消えていった。その様子をぼんやりと眺めながら、蜂蜜を溶かしたホットミルクをゆっくりと喉に流し込むと、「冴くん、まだかなぁ」とため息と一緒に少し不満げな声が溢れる。
 今日は練習の後にチームメイトの飲み会があるということはちょっと前から聞いていて、久しぶりに一日中ずっと一人きりの休日。好きな時間に起きて、好きなものだけを食べて、たまにうたた寝をしながら撮り溜めたドラマを見る。そんな気ままな休日も、やっぱりふとした瞬間に隣に彼が居ないことが寂しくなって。思っていたよりも私は甘やかされていたんだなぁと思うと、余計に冴くんが恋しくなった。
 空になったマグを片手に少し冷えた体をさすりながら、そろそろ部屋に戻ろうかなと踵を返す。そして室内に視線を向け、目に留まった物をじっと見つめてから引っ掛けていたスリッパを鳴らして窓へと近づいた。

「……ちょっとだけなら、借りてもいいよね」

 二人掛けのソファに乱雑に置かれたそれを軽く引っ張り、ふわりと空気を纏いながら背中を覆う。私の体格よりも二回りほどは大きなそれは、冴くんが普段着ている部屋着のカーディガンだった。
 そっと袖を通し、閉じた窓にぼんやりと映る自分の姿を見ながらくるりとその場でターンする。見慣れぬベージュを身にまとう様子は、香りも相まってまるで彼に包み込まれているかのようで。誰が見ているわけでもないのにあたりを何度か見渡してから余った袖の部分にすんと鼻を鳴らすと、より深く冴くんの香りがしてぽっと頬が熱くなった。

「……名前、何してんだ」
「うぇっ!? ……さ、冴、くん……?」

 その瞬間、リビングのドアが音を立て、聞き馴染みのある声が穏やかに部屋に響いた。思ったよりも早い帰宅時刻に、壁時計の針と冴くんを交互に見つめる。匂いを嗅ぐところまでバッチリと見られてしまった羞恥と申し訳なさが重なって、赤く青くと顔色を変えながらぐるぐるとちっぽけな頭で言い訳を考えてみたけれど、結局勝手に着ていたのは明白だからどうしようもない。

「これは、その、……」
「それ、俺の部屋着だよな」
「うん、……そう、……冴くんの、服です」
「寒かったのか」
「へ? ……あ、そ、そうなの! さっきまでベランダに出てたら寒くなっちゃって、……ここに置きっぱなしだったから、つい借りちゃった……なんて」

 並べた言い訳も段々と苦しくなってきて、冴くんに嘘はつきたくない気持ちと、恥ずかしい自分を誤魔化したい気持ちがせめぎ合う。僅かに二人の間に沈黙が落ち、やっぱり正直に寂しかったからだと白状してしまおうかと伏せていた目線を上げる。すると、お酒を飲まされた影響だろうか、いつもよりもほんのりと頬を淡く染めた冴くんがじっと私を見つめていた。

「……冴、くん?」
「ん」
「え、え?」
「早く来い」

 スプリングコートを着たまま荷物を乱雑に床に下ろすと、冴くんは両手をがばっと大きく広げて顎をくっと自分の方へと動かした。“来い”という言葉のままにふらふらと近づくと、ゆっくりと足を運ぶ私に痺れを切らしたかのように腕が力強く引かれ、そのまま薄手のニットへと勢いよく飛び込んだ。
 包み込まれるような温もりと、柔らかな素材の中からほのかに香るアルコールと煙草の匂い、そして、カーディガンよりもずっと濃い、冴くんの匂い。安心するその香りに思わず小さく息を吸うと、冴くんはくつりと笑って抱きしめる力を強めた。

「カーディガンより、こっちの方がいいだろ」
「……もしかして、寂しかったのバレてた?」
「さぁな」

 普段よりもちょっとだけ楽しそうに口角を上げて、まだアルコールでほてる体が暖かく私を包み込む。ぽかぽかとひだまりに包まれているような優しい温もりと、どこか安らぎをもたらす香水の匂いが混じり合って、やっぱり私は冴くんと一緒にいるのがいっとう好きなのだと心臓が音を立てた。安堵で微かに滲む瞳で見つめたルビーのような彼の瞳は、夜空で淡く瞬く星を散りばめたような美しさと、アルコールだけではない熱を帯びた色がアンバランスで愛おしい。
 願わくば、君も私の隣が居心地の良いものだと思ってくれていますように。そう思いながら、背伸びをして油断していた唇を奪い「おかえり」と笑いかける。冴くんは珍しく目をまあるく見開くと、「ただいま」という返事と共に私の唇に深く口付けた。

20230330


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