毎日は小さなハコの中



 ぐつぐつと音を立てる鍋の蓋をそっと開け、お玉をぐるぐるとかき混ぜる。ふわりと漂うミルキーな香りに小さくお腹がくぅと音を立て、早く帰ってこないかなぁと壁に掛かった真新しい時計の針を見つめた。
 チンと鳴ったトースターの扉を開けると、この家の近くで見つけたパン屋さんのバケットが香ばしい匂いを漂わせる。朝に少しつまんだ時も美味しかったけど、温め直すのもきっとまた美味しい。
 深めの白い陶器皿に鶏肉とブロッコリー、人参にじゃがいもがたっぷりと入ったシチューを注ぎ、淡いベージュに一目惚れした平皿に温めたパンとカットしたチーズ、トマトで彩る。お揃いで買ったちょっと良いお値段のするグラスを並べたらテーブルセットは完璧だ。
 事前に聞いていた予定時刻まであと五分を切り、もうすぐかなとソワソワしているとガチャリと鍵の開く音がしてエプロンもそのままに玄関へと小走りする。少しヒヤリとした空気が室内へと入り、僅かに息を切らした彼へ向けて笑顔で一言、気持ちを込めるように口を開いた。

「凪くん、おかえりなさい」
「うん、ただいま」

 私の出迎えに驚いたのか少しだけ目を見開き、次いでゆっくりと目尻を下げる。今日少し寒かったでしょ、と声を掛けながら荷物を受け取ろうと手を伸ばすと、荷物ではなく凪くんの手が重なった。まるで感触を確かめるように、にぎにぎと軽く指を動かしていく様子に不思議に思いながら問いかける。

「どうしたの?」
「んー、……なんか、やっと名前と一緒に住んでるんだなって実感が湧いてきた」
「ふふ、ちょっとわかるかも」

 凪くん、朝から結構ソワソワしてたもんね。最後の荷物を運び込み、そのまま後ろ髪を引かれながらも練習へ行った凪くんを思い出してくすりと笑みが溢れる。
 すると、背負ったままの荷物も上着もそのままに、触れ合った指先から手を引かれて、勢いのままに凪くんの胸元へと誘われた。少し冷えた上着が冷たいのに、不思議と心も体もぽかぽかと暖かい。首元に顔をうずめて「良い匂い、……シチュー?」と鼻をスンと鳴らす彼に「正解、具材ごろごろシチューだよ」と答えると、嬉しそうに僅かに口角を上げた。

「今日の朝、家出る時ちょっと寂しかったけど、帰ったら誰かが待っててくれるのって案外良いもんだね」
「それはよかった」

 ぎゅうっと抱きしめる力が強まって、ちらちらと当たる髪の毛が頬をくすぐる。じわりと体温が溶け合っていくような感覚が愛おしくて、ついまわした腕にきゅっと力が入った。
 しばらくこのままでいたい気もするけど、せっかく時間を合わせて作ったご飯が冷めてしまうのも勿体無い。背に回した手をトントンと叩いて「凪くん、ご飯が冷めちゃうよ」と言うと、凪くんは名残惜しそうな目をしながらゆっくりと手の力を抜いて腕を開いた。

「そういえば、今日デザート買ってきた」
「え、ほんと?」
「名前、これ好きだったでしょ」

 手渡された紙袋はデパ地下にあるお気に入りの洋菓子店のもので、思わずキラキラとした目で凪くんを見つめる。「ありがとう!」ともう一度抱き付くと、目に見えて喜ぶ私の髪の毛を大きな手のひらでわしゃわしゃと撫でた。「なんか犬みたいだね」なんて言うけど、私は凪くんの方が犬っぽいと思う。モフっとした髪の毛とか、大きくてくっついてくる感じとかは特に似てる。

「あとで珈琲でも淹れて一緒に食べようね」
「珈琲、確か玲王がくれたやつがまだあったっけ」
「沢山頂いたからまだまだあるよ」

 凪くんがようやく鞄を下ろして上着を脱ぐ様子を見て、先に戻ってノンアルのシャンパンでも開けちゃおうかなとリビングに向けて歩き出す。すると、くっとエプロンの裾が引かれて後ろへとバランスが崩れた。少しよろけながら後ろへ振り向くと、その勢いのままに凪くんの元へと引き寄せられて視界に影が差す。

「なぎ、くん?」

 灰色の瞳と目が合い、唇にやわい感触がふにりと触れる。自然と目を閉じて、触れるだけの軽いキスを二、三度繰り返してから、そっと顔が離れた。まだ鼻先が触れそうな程の距離、甘い視線は、私をまっすぐに捉えたまま。

「……あとで、たくさん触れてもいい?」

 頬に添えられた指先が耳の縁をやわくなぞる。指先から、唇から、凪くんと微かに混じり合った体温が心地良い。こくりと小さく首を縦に振ると、よく出来ましたと言うかのように、凪くんはもう一度優しく唇を奪った。

「……お腹、すいてきたね」
「うん、ご飯食べよっか」

 薄く色付いた私の頬を軽く撫で、ゆるく手を繋いでリビングへと続く短い廊下を歩き出す。
 私も凪くんも、今日から初めての二人暮らし。少しどきどきと高鳴る心臓は、これからの生活に期待を募らせていくかのように鼓動を刻んでいた。

20230321


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