雨の降る屋上。古い扉はぎぃと歪んだ音をたてて。

振り向いたその人の顔を見たとき、俺の世界は生まれ変わった。








「おはようございます、先輩」

「………おはよう」

「流石N先輩ですね。毎日7時12分に家を出る。この一週間、一秒の狂いもありませんでしたよ」

「ああ、もちろん……って怖いよ君!」

清々しい朝日のなか、ハルモニア宅の前ではこの一週間でお決まりになってきたやり取りである。


一週間前、雨上がりの玄関前には一人の少年が立っていた。知り合いだろうかとNが首を捻っていると、少年は勢いよく腰を曲げ右手をこちらに突き出した。なにやらそれは昔テレビで見たことのあるポーズだ。逃げなさい!とNの脳内で誰かの(それは美しい女神のような)声が聞こえた気がした。ああその声に、従っていればよかった。少年が叫ぶ。そして言葉は朝焼けのなかに響き渡った。

「俺と付き合って下さい」

目眩がした。






その日から少年はNの後を付いて回っている。アフロディテとアテナ曰く、これが今流行りのストーカーという人物らしい。しかしこれはやられると確かに気が滅入る。泣きながら相談していたテレビの女性に、Nは今更ながら同情した。ちらりとNは横を見る。相変わらずこちらを見ている少年と目が合い、ヒッと情けない声が漏れた。

「先輩、そんなに怯えないで下さい。俺は先輩に何の危害も与えませんよ。一日目に先輩に逃げられてから、手を繋ごうとしたこともないし、無理矢理抱き締めたこともない」

「当たり前だよ!」

「そんな。俺の気持ちを伝えるには抱き締めるぐらいじゃ足りないっていうのに」

「アフロディテェー!!アテナァー!!」

真顔で言ってのける少年に、Nは思わず二人の名を呼んだ。少年は冗談ですよと笑うが、目が本気過ぎて全く信じられない。Nは鞄を抱き締め、じわじわと距離をとった。


そんなNの姿を見て、少年はふぅと溜め息をつく。溜め息をつきたいのは此方の方だと突っ込むこともできずに、Nはじっと彼を見つめる。変な勘違いはしないでほしい。危険人物から目を離したくないだけだ。本当は走って逃げ出したいのだが、それは既に二日目に試して失敗済みだ。全力疾走で走る自分を、後ろから延々と着いてこられるというのは想像以上に気持ち悪かった。しかし彼はそんな思惑を知ってか知らずが、見つめる視線を逸らさずにNにそっと笑いかけた。


「ねえ先輩、」

その真剣な目にびくり、とNは背筋を震わせる。危険信号。エマージャンシー。だめだ。この続きは聞いてはいけない。頭の中では女神の声が木霊する。今すぐ走れ。後悔するぞ。分かっているのにNの足は、黒い瞳に縫い止められて動かない。だめだだめだやめてくれ。この言葉は聞いてはいけない。そしてNの願いは通じずに、ゆっくりと少年の唇が動く。



「そんなに俺の名前、知りたい?」



嗚呼本当に、早く逃げてしまえばよかった。
Nは一気に顔に血が昇るのを感じた。わなわなと震えながら、Nはなんとか言葉を紡ぐ。


「な、なに言って」

「だって先輩、いつも俺の左胸見てるし。学校でもよく会いますよね」

「それは君が!」

「嫌だなぁ、俺はストーカーなんてしてませんよ」

「僕だってしてない!」


少年はくすくすと笑う。Nは頭の中が真っ白だった。ありえない。学校でやけに彼に会っていたのは、自分が彼を追っていたのか。ありえない。ありえないだろうそんなこと!少年は思い出したように言葉を続ける。


「無くしてた名札、今日届くんですよ」

「聞いてないし!」

「昼休み、屋上にいますね」

「行かないよ!」

「待ってますね」

Nはそれきりなにも言えなかった。口をパクパクと動かし、青い目は涙で潤んでいる。もう逃げられない。Nは何処か冷静にそう悟った。

「待ってますから」

もう一度そう言ってから、少年は走り出す。学校はもう目の前だった。

昼休みまで、この心臓は持つだろうか。

早鐘を打つ左胸を握りしめながらNは息を吐いた。プラスチックの硬い名札が、白い掌に痛かった。





ラブストーリー、225分前
(君だって名前で呼ばないくせに、)





2010/11/26 エム
ギャグ要素がいったいどこにあるというのか…。

匿名さん!お待たせした上にこの様で本当に申し訳ないです…!こんなものでよろしければお受け取りください。
リクエストありがとうございました!
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