それは、ごく平凡な家族の光景。

優しく微笑む母。厳格そうな父。元気に周りを走るポケモンたちと、それにじゃれつく少年が一人。日傘をさす母が笑う。バスケットを持った父が注意する。転ぶなよ、気を付けてね。足場の悪い森だって、少年の遊び場だ。両親の声も聞こえないように、少年は前へ前へと進む。ふいに視界が開ける。深い森に光が差し込む。眼前に広がるのは煌めく湖。きらきらと水面が揺れる。はしゃぐポケモンと少年の声。苦笑する母。ため息をつく父。落ち着きなさいな、お弁当も湖も逃げないわよ、さあ、座ってちょうだい――――


そして彼女の唇は、そっと彼の名を紡いで、











ぱちりとNは目を開いた。頭上には、昼夜問わず煌々と明かりを放つランプ。窓の外は未だ暗闇が支配した世界。見回せば、何ら変わりのない何時もの狭い部屋。それを確認すると、Nは詰めていた息を吐いた。じっとりと汗をかいた背中が熱い。


何か夢を見ていた気がする。


しかしそれがどんな夢だったのか、Nにはよく思い出せない。ただ覚えているのは懐かしい森。確か、家の裏手の森を抜けたそこは青い湖が広がっていたはずであった。だがそれ以上のイメージがはっきりしない。景色は霞がかかったように輪郭を無くし、Nの脳裏から霧散していく。ただ、何故か物悲しい感情だけが心のなかに残っていた。
Nはベットに突っ伏し瞼を閉じる。忘れたくないような、忘れたいような不思議な夢。睡魔に霞む視界の中、懐かしい湖の色だけが頭にこびりついて離れなかった。






ゲーチスはムンナをボールに戻し、左手で隻眼を覆う。頭の中には、ムンナの煙が映した儚い幻想が離れなかった。
森を歩く三人の家族。男と子供と、ひとりの女。一見ごく普通の家族だが、その女には顔がなかった。当たり前である。今見た夢はNが見た夢なのだ。例え夢の中ででも、知らぬものを見ることはできない。Nは、見るべき母を知らない。
顔から手を離し、彼はゆっくりと机の引き出しを引く。書類に埋もれるように、だが確かにそこにあるのは一枚の写真。所々色褪せた、一組の男女。
ゲーチスは、現状に後悔はしていない。彼女についてもNについても、仕方ないことだと割り切っている。それがゲーチスという人間であった。だがもしも、と彼は思う。


もしも彼女が生きていてくれたなら、現状は少しでも変わっていただろうか。せめて夢のなかで、彼は母の温もりを知れていただろうか。彼は、幸せになれただろうか。


そこまで考えてゲーチスは首を振る。所詮仮定の話だ。考えたところで何の意味もない。そもそも、興味本意で彼の夢を覗いたことが間違いだった。何を期待している。あの子供をこんな世界に閉じ込めた、この私が。あの子供の、幸せを奪ったこの私が。




薄紫色の幻想は、今や空気に消えて跡形もない。暗い部屋のなか、動かぬ女神だけが静かに微笑んでいる。

湖によく似た色の瞳が、ただこちらを見ていた。







アルカディアの夢を見る
(それは楽園という名の届かない幻想)



2010/10/24 エム
ああ…やっぱり私ハルモニア家大好きです。楽しい!!

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リクエストありがとうございました!
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