こぽこぽと液体が沸騰する音が、静かなカフェに満ちている。キャラメル色をした木目調の家具で揃えられた店内は、穏やかな空気を醸し出していた。テラスから微かに聞こえる懐かしいアコーディオンの音色。そんな雰囲気を壊したくなくて、ブラックはゆっくりとソーサーにカップを下ろす。かちゃり、滑らかな陶器が抑えきれずに一声立てた。

「素敵な店だね」

「そうだろ?」

「うん、本当に。連れてきてくれてありがとう」

同じようにNもカップを戻す。白い陶器の中、お揃いの紅色が微かに波を打つ。

「旅してるときに此処見つけて、いつかお前と来たいと思って」

「、そうなんだ」

「Nが旅してる間は、来れるか不安だったけど」


良かった。緩やかに微笑むブラックからぽつりと落とされた言葉は、静かに空気を振るわせた。Nは何も答えずに、そっとカップを持ち上げる。傾けたそれから流れ込む紅茶は、未だ温かさを保っていた。





こんなにも優しい時間を過ごすことができるなんて、あの時誰が想像しただろう。

対の伝説を背に従え、英雄として戦ったあの日。唐突に告げられた別れの言葉。ブラックはいつか訪れる再開の日を信じながら、しかし確かに微かな絶望を感じていた。

ああ、もう二度と―――

そう思ったのは、真実だったのに。






「おいしい」

僅かな沈黙の後、Nはぽつりと呟いた。古い映画音楽を奏でていたアコーディオンは、いつの間にか曲を変えている。何の曲だっただろうか。微かに聞こえるのは聞き覚えのあるメロディーだが、ブラックには思い出せない。かちん、カップの音がブラックの思考を遮った。

「カントーにも、美味しいカフェがあった」

聞こえた単語に、ブラックは微かに目を見開いた。旅の話をNが自らするのは、再会したあの日以来だったからだ。Nはゆっくりと瞼を伏せる。そして過去の記憶を紐解くように、そっと喉を振るわせた。

「シンオウとか、ジョウトとかにも美味しいカフェがあったんだ。色んなお茶を飲んで、僕はコーヒーよりも紅茶が好きだと思った。でもコーヒーも美味しかった。その地方独自の茶葉とか、煎れ方とかあって楽しかった。素敵なマスターがいるところもあった。素敵な人達に会ったし、また来いって言ってくれた」

そこでNは一呼吸置いた。話疲れたのだろう、喉を潤すために紅茶を口に運ぶ。つられたようにブラックもカップを持ち上げる。もうずいぶんと、紅茶は熱を失っていた。カップから視線を外す。正面に座したNが、真っ直ぐにこちらを見ていた。あの頃と同じ透明な、何処までも澄んだ瞳。しかしそれにはあの頃とは違う、確かな愛しさの色が映っていた。Nの唇が楽しげに告げる。どこか、ブラックをからかうように。大したことじゃないように。





「だから、今日のお礼に君を連れていくよ」



今度はもう、離れない。

Nの唇が、確かにそう動いた。






「……絶対だぞ」

「うん、約束するよ」

「カントーもシンオウもジョウトもだからな」

「うん」

「お前が旅した、全然だぞ」

「…うん。案内するよ僕が見た全て」





ああ、もう二度と―――

そう嘆いたはあの日の自分を、ブラックは無性に抱き締めてやりたくなった。心配するなと叫びたい。会えなくなって、それから何年かは確かに苦しい。しかしそれを越えれば必ず愛しい彼に会える。それどころか、こんなにも幸せな日々が待っている。その美しい青の瞳で見てきた世界に連れていってくれるという。
想像もできなかった、こんなにも鮮やかな日々。




ブラックは冷めた紅茶を一気に流し込んだ。冷たくなってもなお、香り高い紅茶は美味しさを失わない。Nが案内してくれるカフェは、どんな紅茶がでるのだろう。

「行こうか」

代金を机に置き、ブラックは立ち上がった。Nも同じようにカップを傾ける。

「今度はちゃんと、行ってきますを言わなきゃだね」

「学習したな」

「あれだけ怒られれば誰だって覚えるよ」

Nは苦笑しながら立ち上がる。しかし言葉とは裏腹にその表情は擽ったそうで、ブラックは幼馴染み達の気持ちがNに届いていることを知り嬉しくなった。

「じゃあまずはカノコから行くか」

ブラックは飴色の扉を押す。からんからん、とドアベルの音が軽やかに響いた。青く広がるシッポウの空の下、テラスから流れるアコーディオンの旋律がはっきりと耳に届いた。



(嗚呼、この曲だったのか)


ブラックは合点がいき、一人で頷いた。それにしてもなんという偶然だろう。これはまるで今の二人にぴったりな選曲ではないか。ブラックはくすりと笑ってNに話しかけた。

「よし、じゃあ挨拶に行くぞ」



そして始まる愛の旅は、君と紅茶を飲む為に。





愛の挨拶
(こんにちは、僕達旅に出るんです)
(いってらっしゃい、大切な人)
(いってきます、優しい人)



2010/10/19 エム
書いたあとで確認したら、カフェソーコの内装が全然違って「どんだけカフェに夢見てるんだよ…」と笑いました。の、脳内補完!

花梨さん、こんなものでよろしければお受け取り下さい!
リクエストありがとうございました!
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