「失礼します」

朝の光が淡く輝く美術室は、まるで別世界だった。東を向いた窓から差し込む光を背に受けて、キャンバスに向き合う少年が黒く世界から浮かび上がる。

「いらっしゃい」

逆行で表情は見えなかったが、ブラックにはにこりと笑ったNが見えた気がした。




朝練してるんだ、と昼休みにNは唐突に語った。朝日が昇る瞬間を、世界が生まれ変わる瞬間を描いている。幸いにして特別教室がある校舎は南向きで、窓は東に付いていた。朝日が差し込む微かな時間。塗れる色はごく僅かだけれど、下絵はもうすぐ完成するらしかった。

「その世界の中に、君を描きたいんだ」

そう恋人に言われれば、苦手な早起きだって簡単にできるというものなのであった。




「凄いですね」

ブラックはキャンバスを覗き込む。まだ下絵だと言っていた絵は粗方の形が見えている。ブラックに美術の心得などはなかったが、淡い色で構成された世界はとても美しく見えた。まだまだだよ、と笑いながらNは筆を滑らせる。世界に新たな色が付く。Nと出会った時のことを思い出して、ブラックは心が震えた。

「この辺りに、ブラック君を描きたいんだ」

Nの白い指が画面の一角を指差した。そこは周りと比べて、未だ下地の色が目立つ。不思議なもので、とNは可笑しそうに言った。

「何故か、ここに色を塗る気が起きなくて。気が付いたらぽっかり余白ができていた」

ほら、と人差し指で空白をなぞる。ブラックは自分がその手で触られているような妙な感覚になって、微かに身動ぎをした。Nはそんなブラックに気付かず話し続ける。

「なんだろう、って思って見てたら空白、このキャンバスサイズに縮尺した君の身長にぴったりなんだよ」

そこに立って、とブラックは教卓の横を指示される。言われるがまま足を動かせば満足気な声が聞こえてきた。

「ほら、ばっちりだ」

ブラックの姿を一瞥し、Nは嬉しそうにキャンバスを見つめる。素早く筆を動かす様子から、ブラックの形を描き入れているらしかった。Nはキャンバスから視線を離さない。本人がここに居るというのに。
ブラックは絵画の中の自分に恋人を取られた気がして、Nにからかいの言葉をかけた。


「やっぱり、先輩の世界は俺が居ないと始まらないってことじゃないですか?」


Nはブラックの言葉にきょとんとしたが、しばらくして意味を理解したのか、その顔を微かに赤くした。やっぱり君は質が悪い。小さく呟いた後に、Nはだけどと言葉を続ける。ゆっくりとキャンバスから顔が上がる。恥ずかしそうに、しかし確りと目線が絡みあった。



見詰める視線の青に、今度はブラックが動きを止める。朝日に煌めく唇がゆっくりと動いた。





「…だからこの時間に、ブラック君に会いたかったのかもしれないね」





「………っ!!」

やられた。一気に顔に血が昇るのを感じる。今ブラックの顔は、Nとは比べ物にならないくらい真っ赤に塗られているだろう。微かな響きはブラックの心を全て揺さぶっていった。からかうつもりが、Nに全てを持っていかれてしまった。



こんな姿を描かれたらたまったものではない。敵前逃亡。構わずブラックは思わず扉に向かおうとしたが、

「、待ってよブラック君!」

という声に足を止めた。振り返れば困ったような表情のNが、己の言葉に照れたのか、赤い顔をして視線を泳がせていた。


「えーと………………。そうだ、ドア」


しばらく考えてから、Nはぽつりと呟く。ドアがどうしたのかとブラックは扉に視線を移した。まだ顔は熱い。そんな自分を見られたくなかった。しかしNはNで必至に何か考えている。少し目を合わせれば、お互いに同じ色の顔をしているのに気付いただろうに。


「うん、えーと……、あ、鍵!そう、ドアの鍵がないから」

一つ息を吸って、Nは小さく祈るように呟いた。


「鍵、見つけるまで。…戻れないよ」


最後はほとんど聞こえないぐらい、小さな小さな声だった。太陽は角度を大きくしている。もうすぐチャイムがなるだろう。始まっていく世界はますます眩しくて、ブラックはゆっくりと目を閉じた。


「………仕方ないですね」


背後から安堵の息が聞こえた。未だに顔は赤いので、振り向くことができない代わりにブラックは耳を澄ませたのだった。




ブラックの視線の先、扉の横の壁にはご丁寧に美術室と札のついた鍵がぶら下がっていたけれど、目を閉じたブラックにはもう何も見えなかった。




鍵は、きっとしばらく見つからない。










部室の鍵が見つかるまでは
(世界に僕達二人きり)




2010/10/3
部室じゃないっていうね。まあでも美術部にとって部室みたいなものだよね←




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