紫原敦 | ナノ


 幼稚園、小学生、中学生、高校生、いつの時も、背の順は一番後ろ、部活は高身長が生かせるバスケットボール部でセンターを担っていた。紫原敦は高校を卒業し、四年制の大学に入学し、2ヶ月が経った時にある事件に巻き込まれた。引っ越し屋のアルバイトをした帰り道、午後十時を回っていた。明日は課題提出の講義があったのだが、友人のSNSを見てそれを知ったので課題を終わらせていなかったのだ。そのためにいつもより少し早めに帰宅しようと人気の無い、住宅街でない工業地帯に近い道を選んで速足になっていた。治安も悪くは無いが、一歩右へ行けばこうして工業地帯になる。一歩左へ行けば、住宅街に近付いて行く。そんな街だった。
「え?」
 腕に一筋の線。紫原は立ち止まった。何かにぶつかったわけでもない。周りには何もない。道だけである。周りを見渡しても、この傷をつけるモノなどなにもなかった。立ち止まった紫原は、課題の存在を思い出して急いで家路を急ごうと踏み出した瞬間、腕の傷から黒い線が浮かび上がり、宙を舞った。
 驚き、声も出ない紫原の前に一つの個体が飛び出て来た。それは、黒い何かでもなく、得体のしれないものでもなく、人間だった。宙を舞う黒を切り、槍を戻し弓を発動した少女は、紫原を護るように前に出て、宙を飛び交う物体に狙いを定める。
「一体なに」
「いいから黙ってて!くそ、案外早いな……」
 矢を射るが、黒い物体はそれを軽々と避ける。弓を使うが、名前は槍を使う方が得意分野なのである。
「しかしまぁ、豪快にやられたね。これじゃお祓いも時間かかるゾー」
「お祓い?何それ?俺呪われたわけ?」
「お祓いっちゃお払いだけど別にお化けとかそういう類のものじゃないよ。これ、一時間後には心臓に到達して死ぬからネ」
「……何ソレ」
 名前は不敵に笑い、黒い物体に狙いを定める。名前の倍以上ある身長の紫原は背を丸めた。黒い物体が止まり、形状を変えてきたのだ。接近戦に持ち込むつもりだろうか。敵も浮遊はするが、攻撃はできないようである。元々相手も接近戦タイプだったということだ。
「おにいさん、ちょいと後ろに下がってて。怪我するよ」弓を槍に変える。紫原は一歩、二歩、三歩、引いた。
 黒い物体も止まる。名前も槍を構え止まった。黒い物体は黒い粒子を飛ばし、粒子の形状を変えていく。それに気付いた名前は、手の中にある魔法陣を発動させた。間一髪のところで、瞬く間に降り注いできた黒い雨を、サークル状の盾がそれを防ぐ。名前が発動したものだった。そして一瞬のうちに黒い物体の目の前に飛び、紋章が描かれている場所へ槍を突き立てた。


「やだネ。わたし補佐部隊じゃないですもん。勝手にしてくだサイ。お祓いも赤司くんがやったしそれでいいんじゃないんです?」
「そうか?僕は彼がとても有能な人物であることを予想しているのだが」
「まぁ確かに、呪印の毒が遅く回るっていうのは珍しい体質だとは思うし、あまり動じないのは有能の一部になるかとは思うんですが……彼、まだアレと出会って一日目ですよ?いきなりわたし達の支部へ来いというのも……。まだこの組織に加担するとも決まってないですし」
「紫原くん、君はどうだ」
 紫原が連れてこられたのは、ただ大きいだけの倉庫内。彼ら彼女はここを基地、支部、と呼んでいる。赤司と名前の他に、深緑色の髪色の緑間がパソコンと向き合い、キーボードを叩いていた。
 話を振られた紫原は何を答えていいのかわからず、口を結んだ。赤司の口から、あの黒い物体の小隊、組織の姿、仕事、それらの説明を受けたがいまいち現実味がなく、答えを出すことができない。それに彼はまだ大学生なのである。しかもまだ一年目で、大学生活にやっと慣れてきたところなのだ。
「えっとぉ、君達何歳なわけ?」
「……17だケド」
「え?マジ?俺より下じゃん」
「僕も17だよ。そこのパソコンの前にいる真太郎は20歳だ」
「へーあっそう。じゃあ俺はあんた達よりも年上ってことだー」
 紫原はそれ以上、敬語使えよ、とも、こんな時間にウロついているな、とも、何も言わなかった。ただ大きな欠伸だけをした。
 名前は、正直、赤司に見定められる人物はそうそういない事と、紫原の潜在能力についてはまったくの未知数でこれからを期待できる事を理解していた。期待もしていたのだ。しかし、これは死と隣り合わせの仕事であり、あれを見てしまったからにはトラウマになって生活するか、この職に就くか、それともそれを隠し普段の生活に溶け込むか、この三択だ。紫原はどれを選択することもできる。この職に就いた時の待遇も赤司から説明を受けている。だが、生活がある以上どうだろうか。
「別にぃ、どっちでもいいけどー……」チラリと名前に視線を向ける。「あんたは俺のことどう思うわけ?」
「………え、わ、わたしっすか?」いきなり話を振られたので、名前はぎこちなく口角を上げ頭の上にはクエスチョンマークを浮かばせた。まさか、このような事で話を振られるとは思わなかったし、紫原本人が決めることであり自分は関係ないと思っていたからである。それに、その考えは間違ってはおらず一つの正論であるのだ。
「だってあんたが俺を助けてくれたんだしょー?なら、考えがあってもおかしくないじゃん」
「いや、そのコレばかりはわたしはどうすることもできないですヨ……?紫原くんが決めなきゃ」
「でもめんどくせぇし。別に、家に帰っても誰もいないから相談するっていうこともねぇし。だからあんたが決めてよねー。……俺の事助けたんだから」
 紫原は死を覚悟したことはなかった。元々、父子家庭で育ってきた紫原は小学生からずっと一人きりの夜を過ごすことが多く、父親と一緒に寝ることも、お風呂にはいることも極僅か、両手でやっと数えられる程度だ。金だけは不自由なくあったが、紫原は父親からの金銭を受け取ることを良しとしなかった。それにどうせ返っても一人ならばアルバイトをして遅く帰った方がいいという考えもあった。
「じゃあ噛んで」
「は?」
「わたしもさっき、アイツの呪印受けたから。命に別条はなし自己再生できるけど、多分、君、患部を噛んだら、祓うことができる。噛んで、治ったら、仲間になればいい」
 名前は腕を出した。黒い斑点ができている。紫原は名前の腕を見下ろし、そっと腕を取る。
「こうでいいわけ?」
「うん」
 紫原の鋭い歯が、名前の腕の黒い斑点の上に乗り、くっきりと歯型を付けた。痛みに顔を歪める名前の腕の斑点は次第に肌色に変わり消えていき、完全に毒を祓うことができた。
 紫原の能力は、解毒の力だった。この能力は、数少ない祓魔師が何十年と修行を積んでから得られる力で、修行をしたとしても必ず得られる力ではない。
「紫原くん」
 赤司が名前の横に立つ。
「ぜひ、きみを僕の支部でその力を奮ってほしい。なかなか肝も座っているようだから気に入ったよ。やはり僕の眼に狂いは無かった」
「………うん、そっかぁ。じゃあよろしくねー」
「ああ、歓迎するよ。紫原敦くん」


 それから紫原は即戦力になるように訓練を積んだ。学校を辞めた。父にはこの組織の事を話した。彼の父親は彼に無関心だったために好きなようにするといいと一言だけ言って、いつものように1万円をリビングにある机の上に置いて仕事に向かった。18歳の紫原は学校を辞め、朝から夜まで本部で訓練の毎日を送り3週間、彼は赤司が支部長である基地へ配属された。
 紫原敦は元々能力が高く、通常2、3ヶ月掛かる訓練を3週間で終えることができた、天性の才能を持っている。ダルイ、面倒くさい、そう言いながらも決まり文句はナメられるのは嫌だからといって、人一倍に努力を重ねた結果がこれである。紫原が配属され1週間が経ち、大した仕事もないままだった支部に一つの仕事が舞い込んできた。エイリアンの大量発生である。幸い他の支部からも応援がありそこで対抗しているらしいが、母体を持ったエイリアンが廃墟に住みついたらしく、エイリアンを量産しているとのことだった。赤司は緑間、名前、紫原に応援に駆けつけるように命令を出し、支部長である赤司は本部に応援を要請しにいった。
「俺が先に行っている。お前達は後から、遅れずに来い。制限は」
「10分でしょ?ま、いつも遅刻するからそうだと思っててヨ。敦行こう」
 緑間はハァと溜息を吐き、バイクに跨り目的地に向かって行く。免許を持っていない二人はその二足で目的地まで向かわなければならない。じゃ、行こうか。名前は基地のシャッターを締め、端末機器で目的地の場所を把握する。
「すっかり忘れてたけど、名前ちんはいつからこの基地にいんの?」
「この支部が出来た時からずっとだよ」
「でもミドチンが副支部長じゃん」
「わたしには副支部長っていう役柄、合わないのヨ。こんなんだし」
「ま それは納得ー。名前ちんって人の上に立つタイプじゃないもんねー」
「そゆこと。下っ端は下っ端らしく動いてりゃいいし、それが一番楽だしわたしにはあってるの。そういう敦もわたしと同じタイプだと思うけどな」
「なにそれ それは納得できねー」
 この二人は急ぐ気がなさそうである。まさしく、互いに似たもの同士といったところなのだろう。三十分後に駆けつけた二人は、緑間から叱責を受けた。


 本部に収集された緑間と名前がいない基地には、どこかハナがない。赤司はコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいる。紫原はというと、机に座って基地の内装を眺めていた。
 名前がいないだけでこんなに違うのだとは思ってもいなかった紫原は、あまり人に気を遣わない性格なのでどうするべきなのかと考えた。しかし考えただけで特には思い浮かばない。まだ一週間しか経っていない新人であるのでこれがあるべき姿なのかもしれないが。
「今日は初の大仕事だったな」赤司が口を開いた。
名前の机を見つめていた紫原は赤司に視線を向けた。
名前や緑間も君の事を褒めていた。筋がいいとね。あの二人はなかなか他人の事を褒めたりしないから胸を張っていい。それから」
 赤司は腰を上げ、雑誌をソファーに置き、コーヒーのマグカップを片手に持ったまま名前の机に座る。紫原はその瞳に、心を見透かされているかのように思った。赤司は小さく微笑むと、紫原の息が詰まった。
名前は一生君の面倒はみない。それは解っているな?」
 赤司の座る席は名前のものだ。
「俺、そんな子どもじゃねーし」
「いやそういうことではないんだが、まぁ理解していればいいよ。もう少ししたら僕が言いたい事も解るだろう。彼女は、人を好きになれない」
 それを心するように。赤司は名前の机から離れ、自分の席に座ってパソコンを起動させた。紫原の視線はいつまでも、赤司の座った名前の椅子だった。
 赤司がその事を自分に告げた意図はわからなかったが、とにかく赤司は名前に気を遣っていることがわかったし、名前も赤司に対して気を遣っているということも解っていた。それに、互いに気を許していることも知っている。緑間や自分がその隙間に入る要素は何一つない。それも、解っていた。紫原自身が何を気にするわけでもないのに、何故か赤司と名前の存在が脳裏にこびりついていた。

 本部から戻って来た緑間と名前は疲労した様子で、指にペンダコが出来る、手が痺れる、もう目痛い涙が出ると文句ばかり嘆いて、赤司が置きっぱなしにしていた雑誌を下敷きにしてソファーに寝っ転がった。緑間は自分の机に座り、ふぅと溜息を吐く。その珍しさに赤司が珍しいなと声を掛けた。
「当たり前なのだよ。エイリアンの種類別に処理して、報告書、それも種類ごとの報告書に分析データを書かされた、パソコンが壊れていたからな」
「なるほど、名前にペンダコなんて出来るはずがない」
「そーっすよ!もう!本部に100人体制で一枚一枚手書きだよ!?あの母体エイリアン、100種類以上のヤツ産みやがってもう!許さんもっとケチョンケチョンにすればよかった!」
「といっても苦戦していたじゃないか」
「それ言わなくていいですから! ぎゃッ そういえばわたし今日当番じゃ!?」
 名前は飛び上り当番表を見る。今日の当番は名前と紫原だった。
「あ、でもカップ麺あったよネ?それでいいよねー」冷蔵庫の隣にある棚を探り、二つのカップ麺を顔の上にあげる。紫原はそれじゃ足りないといって鞄の中にあるお菓子の数を数え始めた。
 今日の当番は名前と紫原。疲労している二人にはげんなりとする当番業務。
「ここ最近エイリアンが大人しいと思ったが、今回の件で納得がいった。とにかくこちらで資料をまとめておこう。二人とも、今晩は頼む。僕は明日、明後日の隣の県の支部に出張に行ってくる」
「あ、お帰りですか?お疲れ様です。真ちゃんもお疲れ、また明日ネ」
「ああ。名前も今日と明日頼むよ。それではまた」
名前、戸締りや火の元はしっかり確認するのだよ」
「バイビィー」
 短い針が「4」を指す。赤司と緑間はさっさと帰る支度を済ませて基地を出た。彼らも彼らで仕事があり、生活がある。帰る後姿を見つめている紫原の手は止まっている。先程の赤司の言葉を思い出していたのだった。
 この後仕事がなければ特になにするというワケでもないから好きなことしてていいよ、とテレビのリモコンを持ち出した名前は電源ボタンを押した。紫原にとって初の当番であったので、仕事内容など、知りたかったのだがそこまで知りたくもなかった為にこれ以上の事は聞かないでおいた。お菓子を数えるのを再開し、名前と半分に分けられる数だなと思いながら、初めてコーヒーを煎れて砂糖とミルクを大量に流し込み、名前の隣に座ると、異様に白いコーヒーを見て、名前はケラケラと声を上げて笑った。
 再放送の刑事ドラマ。何年か前に放送されていた人気シリーズである。
名前ちんってさ」
「おう なんだネ」
「赤ちんとはもう長いんだったよね」
「え?ああ、ここに来てからってコト?」
「それ以外になんかあんの?」
「何もないけど。まあ長いね、この支部が出来たのも赤司くんとわたしがいなかったら出来ていなかったから。わたしら同期だし、設立当初のメンバーだし、しばらくは二人で仕事もしてたしそれなりに長いヨ。それが?」
「……別に。何でもねーし」
「赤司くんと何かあった?」
「だから、別に何も……」
 紫原は言葉を詰まらせる。先程の赤司の時のような苦い思いの苦しさではない。締めつけられるような苦しみだった。彼はまだ、この生活になれていない。誰かに頼りたくなることなどさしておかしいことではない。
「困った事があったら、敦よりは年下だけど、この職に関しては大先輩だから何でも聞いてネ」
 名前は続ける。
「赤司くんがああいう性格だってのも、もう直ることがないから気にしなくていいよ」
「ふぅん、そお」
「うん、そ。少しは頼りに……なると思うんだけど、わたしでも」
 名前を見下ろした紫原は「気が向いたらね」と呟いた。


 名前と紫原が目を覚ます頃、緑間は既に基地で仕事を始めていた。ソファーから身を起こした名前はのろのろと緑間に近付き、片手を上げて「おっはー」と呟く。緑間は目線だけを動かして顔を洗ってこいと告げると、名前はまたのろのろと洗面所へ歩いて行った。
「おい、起きろ」緑間は比較的大きい声を紫原に向けて発し、紫原は重たい瞼を上げる。
 昨日は幸いにも何も起きなかった。母体のエイリアンを排除したからである。しばらくはエイリアンの活動も落ちついてくるだろう。紫原は緑間を視界に入れた後に時計に眼を向けた。
「紫原、赤司から伝言があるのだよ。まったく、こんなこと俺の時はなかったというのに」
「なに?」
「『あまり、名前に力を使うな』だそうだ。この間の名前を解毒した時の事を覚えているな?」
「へー?なんで?」
「………支部長の命令は絶対だということは教わっているはずだ」
「うん、まあ教わってるけどー……」
「お前のおかげで名前が弱るのは溜まったもんじゃない、俺も赤司もこれがいいたいだけなのだよ」
 紫原は目を点にした。名前を弱らせる?自分が?ますますわからなくなって、意味わかんねー、とソファーに突っ伏した。
「お前は、名前にとったら毒ということだ」
 はいはい、意味わからないし。あの時も名前が自ら解毒をしろ、噛めと言ったのだ。自分に非などないし、赤司もその時は制止する声もなにもなかった。むしろ自分をこの組織に入ることを勧めてきたほどなのに。それでも、緑間の言葉も赤司の言葉も耳にも胸にも刺さる。優しい瞳を向けてくれるのは、名前だけだ。
 紫原は目を閉じる。背中に名前の足音を感じながら。


「君にこれをあげたい」
届きそうで届かない。20万リクエスト作品。