世界、継続的に回り続ける | ナノ


 わたしは姫様の身を案じ、姫様をまもり、姫様のお側にいること。それがわたしの人生であった。生まれて間もなく忍に引き取られたわたしは必然的に忍になることを決定づけられていた。幼少期はなぜ自分が忍にならなくてはならないのか、などと考えたことはなかった。人間は皆忍になるべきだと思ったからだ。だが、ある日師匠であるおばば様は、わたしら忍は主に仕えてこそなのだと皺しかない唇が形取り、わたしはその時自分を恨み、憎んだ。
 それからは主に仕えるために忍術を一層学んだが、わたしは誰かに仕えることに嫌気がさしていたから忍術の腕は然程上がらなかった。上がっていくのは戦術のみだ。相手の動きを探って、予測し、忍が動く、そのやり方だった。
 そんなある日わたしが引き取られたのは第六天魔王と称される織田信長の妹であるお市様に仕えることとなった。表情のない人だと思った。しかし、よく見れば見るほど、姫様でもなんでもない、ただの町娘と同じ、一人の女子であったのだ。



 生温かい風が凪ぐ。縁に座っていたわたしは立ち上がって、姫様の様子を襖をあけて見送った後、客間に足を運んだ。わたしの部下である忠仲という忍が相手しているのは同じ忍である武田に仕えている猿飛佐助、その人だった。
「久しいな」
 忠仲の隣に腰を下ろすと、暗い表情だった佐助は、幾らか明るくなって、「お久しぶりだね。この間はどーも」この間、とは、織田と武田が小さな小競り合いを起こした時の事を言っているのだろう。この間、とは言い難い、かなり前のことだ。信長様がまだご健全だった頃の。やはり佐助は女が好きなのだなぁと思った。佐助と忠仲は旧知の中で、里に居た頃は見た限りでは仲が良かったように思う。しかし佐助は同性よりも、異性の方が好きなのだ。
「かすがにはまだ頬を叩かれっぱなしかな?」
「随分と前の話するねー……アレは照れ隠しだって言ってるだろぉ?」
「どうだか。それで、また何をしに此処に来たんだ? 見ればわかるだろう、織田はここまで衰退してしまった。何も得るものはないよ。あるのは……そうだな、狂った兵共くらいだよ。それから、この軋む屋敷くらいだ」
「あー、わかったわかった。俺らはただ、あんたらから何かを奪う気なんてさらさらないよ、俺らが欲しいのは答えだよ」
「答え?」
「そう、そうだ。なんで徳川ではなく、石田に?」
 佐助の目はわたしを射抜く。わたしは笑った。
「簡単なことだ。姫様に、徳川家康は眩しすぎるんだよ。 姫様があんなところにいたら腐ってしまうよ」
「……そうか。徳川軍との戦いでは、お前が指揮を取っていたって訊いたからさ。まぁあの姫様じゃ軍を率いるどころか、兵卒並みの戦い方しかできないと思うけどな」
「いや…………。兵卒ではないな。 子どものように、遊ぶよ。そして護ってもらうよ、あの方は」
 わたしも姫様のように変わってしまった。姫様を絶対にまもると、そして特別視するようになってしまった。あの頃の姫様はもういないし、浅井長政など、もうこの世から絶っている。浅井長政に合わせてやるのが姫様似仕える忍としての役割なのかもしれない。だがそれは道理ではない。
「ハハハ、君とは共に戦場を駆けた戦友だからな。今回の戦いも頼ることになるだろう」
「俺らが手ェ貸す前に石田の玉様が君らのこと助けるだろうけどな」
「……ああ、大谷殿?なぜ?」
「なぜって、大谷吉継はあんたの姫様のこと大事にしているように見えるんだけど」
「ああそうだな、あの方は姫様を大事にしてくださるから……離反する事は考えなくてよさそうだからよかった。それに物資だって支給してくれるし、飯だってなんだってそうだ、あの方には世話になっているよ」
「そうやって何かの時の為に、借りをたぁくさん作ってんだろうな」
「わかっているさ、わかっているからこその有り難味を感じるよ。絶対に、心配することはないからね」
 忠仲は心配そうにわたしを見る。
 織田にはもう、何もない。何もないからこそ、わたしら忍が動かなくてはならない。
「悲しいよ。忍が表舞台に立ってしまう、時代が」
 佐助はぽつぽつと畳の目に呟き、ゆっくりと立ち上がった。
「近々、武田には挨拶に行こう。わたしが」
「そ?なら菓子くらいは出そうかな。でもあんまり真田の旦那を虐めてやらないでくれよな。あの人もあの人なりに悩んでるんだ、現在進行中で」
「あの熱血男が?それは大変だ。薬でもなんでも持っていこうか」
「え?っ…くく、そうだなぁ 今は鍛錬が命のつなぎめだよ」
「そうか……根本的なものは変わらないのだな。 佐助、わざわざ遠いところまでありがとう、感謝するよ」
「いいえ?俺が勝手にここに来たわけだしね。感謝するのは俺のほうだろ」
「ああ…そうだね」
「………変わったなぁお前。それじゃ誰も寄りつかないぞ」
「……佐助は寄りついてくれたが?」
「俺は……知り合いだろ」
「ああ………、そうだった」
 佐助が影と共に消え、静かになった客間には忠仲の呼吸とわたしの呼吸のみが木霊する。同じ里の者がこうして今も現役で忍として動いているということは、当たり前ではあるが生存しているということ。猿飛佐助は実力は恐ろしいけれども仲間になれば百人力、そして友人が友人に対して贈る、安心感。
 忠仲はわたしと同齢だが、ここではわたしの方が上の立場にある。はぁ、と息を吐いた忠仲は零す。
「佐助は、怖いな」忠仲が織田に来て特徴的になっていった敬語が抜けている。いや、わたしの前で敬語を使うようになっていただけだった。
「殺されてしまうのかと思ったよ 織田は、無くなるのかと」
 弱音を吐く忠仲は手の平で顔を覆った。忠仲の肩を叩き、何も言わなかったが目線では安心しろ、と言った。まるで忠仲が女のようで、わたしが男のようだった。
「忠仲、昨日はありがとう。きみも休んで」
「でも…しかしあなたが休まれていないのに、俺が先に休むわけにはいきません。俺にもできることはあるはずです、何か、何か」
「なら姫様の体を拭く?」
「え!? あっ……そ、」
「姫様はできない?それならわたしの体を拭く?」
 なんて、冗談だよ。 口元に手を持っていって小さく笑ってそう告げようとすると、忠仲は急に真剣な顔つきになった。開いていた口も閉じている。
「………冗談だよ。いいよ、忠仲は休んで。わたしも、姫様の体を拭いたら休むから……」
「……はい。それではお先に失礼しますあなたも少しでも早く休めますように」
「ありがとう それではな」
 客間から離れ姫様の眠る部屋の襖を開けた。「姫様」姫様はまだ眠られている。
 姫様は夜に活動をするから、昼間に体を拭いておかなければらならない。その役目はわたし一人しかできないことだった。姫様の身の回りをするのは、わたしでなくてはならない。でないと皆、死んでしまうかもしれないから。
 何度か呼びかけて、姫様は目を覚ました。「そよ風さん?」姫様はわたしのことを「忍さん」と呼ばなくなった。
「おはようございます姫様、体を拭きましょう」
「………市は小豆の入った袋がほしいわ」
「お手玉でしょうか?それでは、体が拭き終わってからご用意致しますよ。ですので少しの間ご辛抱くださいね」
「うん……わかった ご辛抱するわ」
 こんなに明るい昼に、わたし以外の誰かが姫様の体を拭くなど、考えられない。姫様に手を出す事はわかりきっている。織田には姫様とわたししか女はいないのだ。わたしが忍で良かったと思う瞬間はこういう時だった。わたしがもし普通の一般人であったなら姫様は護れなかった。
「ねぇそよ風さんもっとこっちにおいで?」
「……姫様、腕を上げてください」
「そよ風さんは何で市と一緒に居てくれるの?」
「………忍だからですよ」
 姫様の腕がわたしを抱いた。しまった、身動きが取れない。ハッとして、後悔した。黒い手がわたしに迫ってくる、そして私を抱いた。心臓が強く胸を叩き、頭は危険だということを知らせてくれた。しかし体は動かない。姫様はわたしに抱きついたまま離れず、その肩を押す勇気など生まれてさえ来なかった。
「姫様、体を拭かなければ夜は越せません。 だから、早く拭きましょう」
 必死な言い訳が過ぎた。姫様は頷き、わたしから離れ、黒い手はわたしから離れていく。まるで子どもを子どもが相手しているかのようだと思って、不意に笑ってしまった。わたしの笑みを見たからか、姫様も笑って、大人しく体を預けてくれた。
「はい、姫様 終わりました。只今小豆の入った袋を用意してきますね」
 水の入った桶、手ぬぐいを持って襖に手を掛けた。
「そよ風さん、また見せて」
「あ、はい。もちろん、姫様のためなら何だってしますよ」
 以前暇していた姫様にお手玉を四つもって宙に回したことがある。それを姫様は言っているのだろう。部屋を出て近くにいた兵に持っていた物を片付けておけと命令を出した。外をぼうっと眺めていただけだったからこのくらいの仕事はさせなくてはならないだろう。
 くすんだその瞳の色から目を逸らした。
「………え?」見慣れた人影が二人、こちらに向かってきている。わたしは慌ててその二人に近付き片膝をついて頭を下げた。
「石田殿、大谷殿……」なぜ、ここに?それすら言葉に出ない。
「『そよ風』殿よのォ……『わたしの姫様』の様子を身に来たのよ」
「一言仰ってくれれば、茶でも用意致しました。申し訳ありませぬ、少々、茶を」
「いらん。第五天の様子を見に来ただけと刑部も言ったろう」
「………は、それでは、案内いたします」
 お手玉はもう少し先のことになりそうだ。石田三成と大谷吉継を背に、姫様の部屋の前に足を止める。
「そよ風さん?」姫様の声が明るい。
「姫様、来客でございます。戸をあけてもよろしいでしょうか」
「来客?」
「はい。石田殿と大谷殿です」
「誰……?市に会いにきたの……?」
「……以前、織田を……わたし達を助けていただいた方ですよ。姫様のご様子を拝見しにきたと……」
 襖を少しだけ開けた。中にいる姫様と目を合わせ、「失礼します、姫様」と言って開けると、姫様は男を見上げた。黒い手は出るだろうか。出たとするならばすぐに二人を護らなくてはならないし、姫様を落ち着かせないといけない。
「…………(だい、じょうぶだろうか)」様子を見ても、出る様子はない。大谷は部屋へと踏み入れた。しかし石田三成は部屋に一歩も入ろうとはしない。
「それでは、わたしはこれにて」姿勢を正し頭を下げる。お手玉を持ったら、茶の用意をしよう。
 先程、桶を渡した兵は、桶を抱いたまま縁側へ腰を下ろしてぼうっとしていた。外の景色など見えない塀をいつまでも眺めている。
「もういい、悪かった」桶を取って兵の隣に置いた。
「忠仲」忠仲の名を呼んだ。彼ならすぐにこの場に来てくれると思ったのに、気配が無い、来ないのだろうか。
 後ろから気配を感じた。忠仲だろうか、後ろを振り向くと、忠仲よりも細身で長身の男である石田三成が立っていた。くすんだ瞳の兵を見下ろし、一笑した。何だこれは。石田三成が薄い唇を動かして言う。何の言い訳もできず、言葉も出ず、わたしも思わず笑ってしまった。それを見た石田三成はわたしを不審に思ったのか、「何故笑う」と言う。なぜだろう、わたしにも、さあ、である。
「姫様とは、お会いにならないのですか?」
「先程顔を合わせた。それくらいで構わん」
「なるほど、大谷殿の付き添いなのですね」
「付き添い?言い方を誤るな」
「…ではなぜ、ここに?」
 と言うと、石田三成は言葉を詰まらせた。
「ええい 黙れ!!」
「えぇ!?」
 石田三成はわたしの胸元を掴んで、その細い腕のどこにこんな力があるのだろうか?足の裏が力離れ、石田三成を見下ろす形となってしまった。白い顔がみるみるうちに赤い顔へと変わっていく。わたしはどうするべきなのだろうか……ここから詫びるか?そうすれば足の裏は地につくか?お手玉を取りに行けるか?
「やれ三成……そよ風を離してやれ」
「!」
「姫様!? あっ……」
 情けなく脚の裏ではなく尻が縁側についてしまった。そのまま姫様を見上げると、姫様はわたしのことを見下ろしていた。しかしなぜ部屋から出たのだろう?
「大谷殿……なぜ姫様がここに?」
「なに、そよ風が呼んでいると言っただけのことよ」
「あんな湿気ばかりの部屋にいたのでは、病気をするのではなくて……?」
「………大谷殿、何かわたしに命でもあるのでしょうか……?」
 恐る恐る大谷吉継に問う。嫌な笑いをしてくれる。ヒッヒッヒッヒッヒッ、という笑いは誰の受け入りなのだろうか。それもと大谷吉継のもともとの笑い方なのだろうか?部屋な芝居をされるよりも、直接命を出されたほうがわたしも心持ちが違うから、明確にしてほしいものだ。姫様を使って機嫌を取るなど、もっての外だ。
 大谷吉継、この男は食えない。もちろん感謝はしているが、してはいるが、やはり食えない男だ。ただ、もしもだ、仕えるならば、この男にだったら、わたしは十分な才を振るうことができるだろう。
「なに……これからは戦に出ろと云うだけの話」
「ああ………。なるほど。それならば大丈夫ですよ、姫様やわたしの機嫌を取らなくても わたしは戦忍ではありませんが与えられた仕事は…」
「いいや 主はいらぬ」
 なんだって?
「この人形だけで結構」
「刑部……私はそのような話し聞いていないぞ」
 はて。大谷吉継は首を傾げる。石田三成はわたしの顔色を伺いながら大谷吉継とわたしを交互に見た。突然自分が情けなくなって、寝転がってしまいたくなった。すべてを放棄したくなる。
 駄目だ。わたしが離れ大谷が近付いては、姫様はわたしのことを忘れてしまう。
「……姫様は」
 大谷、石田がわたしを見る。
「姫様の側に置いてくださるのであれば……、構いません」
「主には戦場では使うことなかれ……して、間者として使う よかろ」
「は……はい…それならば」
 姫様はくすんだ瞳でわたしを見ている。恥ずかしくなってしまった、情けない、わたしは元々戦忍ではなかったはずなのに、気付けば戦忍のような働きをしていて、織田の指揮をとる形になってしまっている。大谷吉継はもちろんこれに気付いているはずだ。だから今のような話しを振ったのだろうか?それとも、また別に企んでいることがあるのだろうか?
 石田三成には、訊けない。彼には大谷だけが頼りなのだ、石田は大谷を信頼している、わたしが妙な行動をすれば、あの鋭い眼力で射殺されるだろうな
「戦は明日」
「明日?」
「織田軍のみの戦よ われはこの人形の後ろにつくだけ」
「だけ?」
 小競り合い程度のものだろうか?なにも織田の兵達を無くそうなどとは思わないだろう。この数少ない兵だ、無くすのは惜しい、だが無くなってどうこうなるわけでもない、石田軍の傘下に入っているわけだから、いなくなっても、ほら。
「御意にござります 大谷殿の戦運びならばこの織田軍も、勝利を収めるでしょう」
 情けない忍。情けない織田。情けないお市。このように衰退しても尚、求めてくる理由は、姫様の胸と腹にある黒い、気持ちの悪いもの。人間が人間としていられなくなる黄泉の手ども。織田信長の血縁である、姫様。強い血であることが生まれながらにして決定づけられていた、人生も恐らく決まっていた。
「そよ風さん……」
「! ……はい 如何いたしましたか」
「お手玉を、やろう………?」
「はい……只今…お手玉を持って参ります……!」
 変わりなき、変わりなきあなたでいられますよう。


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