彼が一番好きな彼女が泣いていた。彼は立ちつくして彼女を見ていた。 雨に濡れている互いの体は冷え切っていたが、彼は彼女に伸ばす手すら、そこにはなかった。 どうして、どうして、と泣き叫ぶ彼女を彼は呆然と見つめていた。 雨に濡れていた。 涙におぼれていた。 昨夜の戦闘は予定よりも一時間長引き、被害を大きくして戦闘が終わった。その中に兵士として一人、赤司征十郎は負傷者という形で基地に帰って来た。左腕を無くして。 泥だらけの体は雨で綺麗に流れ落ち、今は彼女が彼の体を拭いている。彼女も濡れているが、彼女はタオルを彼に渡そうとはしないのだ。彼女も一応兵士ではあるが、戦場では後衛で銃弾を放つ部隊に所属しているので、前衛に回ることはまずない。そして敵の兵士と接触する機会も少ない。故に彼女の体には傷ひとつついていない。 片腕になった彼は笑っていた。 「別に、片腕が無くなったくらいどうってことないさ。茶碗を持つ事ができなくなったくらいだろう」 その隣の彼女はタオルを握りしめ、彼の背中に額を預けていた。 戦闘が日を追うごとに激しくなっている。その中で赤司は片腕を無くした。ライフルは当然使えなくなった。使える道具は箸程度。銃器など、もってのほかである。隣の彼女は銃器を持つ事ができるのだが。 「赤司はそれでいいの?もう、だって、腕が」 「義手でもなんでも用意すればどうってことない。きみは特別な人間なんだから、僕に構っていないで仕事をしておいで」 「わたしはただ、銃を使えるだけ」 「本気で言ってるのか?きみには特別な、力が、あるじゃないか」 彼が言う、彼女の特別な力というのは、唯一無二の、力である。 彼女の思いが生物兵器を生む。彼女を保有している軍は、今、勢いに乗って勢力を拡大しつつあるのだ。この間は人型の殺戮兵器が生まれた。彼女の言う事だけに従い、彼女を護るようにして戦う。しかし、彼女が生物兵器を生むといつも隔離されてしまう。生物兵器は怒りを露わにするが、彼女が命令すれば落ち着き、命令に従うようになる。 そして今回でもそれが起用され、敵の兵器によって、彼女の兵器が破壊された。この時戦況が変わったのだ。云わば、彼女のおかげで生きているといっても過言ではないだろう。 「特別な、力が」 「ほしくて、生まれたんじゃないよ……!」 「きみが新しい兵器を送ってこなかったら、僕は死んでいた。僕は現に、きみに生かされているんだ。一番、好きなきみに」 彼は彼女に右腕を伸ばした。 彼女は目を腕に擦りつけて泣いていて、右手でそれを阻むと、彼女は顔を上げた。 「わたしも、好き」 彼女は彼に抱きついた。 彼は彼女の背に右腕を回し、肩を抱いた。 彼と彼女の出会いは一年前を遡る。彼と彼女は戦場で出会った。 「怪我を、しているんですか?」 銃器を担いでいた彼女は通りすがりに、手に怪我を負った赤司を見かけ声を掛けた。その声に振り返った赤司は「ああ」と短く返し、手を隠すと、彼女は胸ポケットから絆創膏をひとつ取って、赤司に差し出した。 これをどうぞ、と戦場には似つかわしくない声に赤司は考えるようにして、差し出された絆創膏を受け取った。 「きみのような女の子がここにいるのは、似合わないな」 「大丈夫。すぐに終わりますから」 そういって彼女は建物内に入って行く。 赤司はその後ろ姿をじっと食い入るように見つめていた。 「ああ、彼女が噂の……」 軍基地で噂になっていた、人間兵器だ。赤司は直感で彼女を理解する。 「彼女が……」 「あんなに、僕と変わらない年齢なのに」 「わたし赤司の身の回りとか、全部やってあげるから」 「へえ、それはいいけど、お風呂はどうするつもりなのかな?」 「えっ……あ、えっと、それは、青峰くんとか連れてきてもらう……」 「ああ そういうことじゃなくて、自分で出来るから」 「でも赤司」 「平気だよ。きみはいつも疲れているんだから、僕の事は気にしなくていいんだ」 「いつも気にしてる。今更だよ」 「……なんてこった」 彼女は赤司の世話を焼こうとするが、赤司はそれを頑なに拒む。しかし彼女も色々な業を使い、拒む赤司の気持ちを段々と柔らかくしていき、最終的にはお風呂以外の身の回りの生活に関与するまでになった。 赤司はしまった、と思う反面、彼女と一緒に入れることが嬉しくて、それも良いかな、なんて思い始めるようになった。 「赤司、包帯取り換えようね」 つらそうに言う彼女だったが、赤司は彼女と一緒に入れる事が嬉しく、思わず口角を上げて「ああ」と短く返事をした。あの時のように。 包帯を取り換えた彼女が汚れた包帯をゴミ箱に捨て、赤司の隣に座ると、右腕が伸び、その体を抱きしめた。 「なんだか寒いね」 彼女が言う。その言葉に赤司は笑って、「そうだね」と返し、右腕の力を強めた。 赤司には見えなかったが、この時も彼女は静かに涙を流していた。見えなかっただけで、服が濡れていくのがわかったので、泣いていることには気づいていた。 「嫌かい?」 彼女は少し考えた後、そんなこともないかなあ、なんて曖昧に答えて赤司の服を強く握る。赤司もそれに気付いて、自分の服を握っているその手の上に硬い皮をかぶせた手を乗せ、彼女の返事を待たないまま後頭部に手を移動させて、胸に押しつける。 「ねぇ、少しの間お休みもらってるんだよね?」 「ああ。で? なに?」 「ちょっとだけ、基地を抜け出してどこかに行かない?」 つまりそれは、軍が危険に晒されるということだ。 赤司は黙った。それはいけない、とわかっているのに、行こうと言ってしまいそうになる自分を少しだけ後悔した。 「またそんな、きみはいけない子だな」 そんなこと出来るはずがないだろう。と、赤司は付け加えると、彼女は黙ったまま顔を下に向けた。 「あはは、そうだよねえ……わたしだって…、わかってるよぉ」 かすれた声に赤司は驚いた。 驚くままの赤司に、彼女は続いて口を開く。 「わたし、もう少ししたら、死んじゃうかもしれない」 赤司の手の力が次第に緩んでいき、音を立てて、腕は白いシーツの上に落ちていく。 まさか、そんな、この子は一体何を。彼女は俯いたまま、赤司に尋ねた。 「ねぇ……わたし、幸せに……なれるかなぁ」 赤司は彼女のことを何も知らない。知っていたつもりでいただけで、本当は何も知らなかったのだ。だから彼女が幸せになれるかどうかなんて、もちろん知るはずもなく、まず、いくら知能を持っていたとしても彼女のことを何も知らないんじゃ、答えられるはずがない。 彼女、一体いくつ兵器を生み出してきたのだろうか? 「ああ、もちろん、幸せになれる」 ごめん。ごめん。本当に、ごめん。 ただきみを安心させたいだけ。喜ばせたいだけ。 彼女は顔を上げ、赤司の顔を見て笑った。赤司も笑い返して、触れるだけのキスをして、もう部屋に帰るように伝えると、小さく頷いた彼女はベッドから体を離した。 「また明日。しばらく予定がないから好きな時に来たらいい。いなかったら医務室か食堂においで」 「うん、わかった。そうする」 扉が開くと、彼女は赤司の方に振り返る。その顔は今日で一番、笑っているだろう。 「赤司の優しい嘘が好き」 そうして、扉は音を立てて閉じた。 彼女の姿はすでになかったが、赤司はいつまでも扉を見つめていた。 右手でなくなった左腕を探しながら、ほんの少しだけ後悔。いつも彼女には嘘を見破られてしまう。 とても、体が寒い気がするのは、なぜだろう?彼女がいないから?それとも体温が低いから? 「まいったな、両腕で抱きしめて上げられなかったからかな」 「嘘が繋いだ微笑みの世界」 |