緑間真太郎 | ナノ



 誰にでも夢を抱く事や追う事、諦める事、投げだす事、どれもできることだと思うのだ。それと同じように生に縋って生きる者や死を求めて死んでいく者がいるだろう。
 驚くだろう。俺はつい先日、死神に出会い、その死神がオレにこう告げたのだ。「あなたは一週間後の20日の午前7時に車に轢かれて死ぬでしょう」と。そしてまた驚いた事に、オレはただ「そうか」と解りきっていたような、安心したような、興味が無いような、そんな気ばかりが脳内と身体を支配していた。キキ、と笑った死神はオレの前から去って行った。

 オレの命もあと残り三日となった。何気ない日常に対して少しだけ変化が見られたような気がするのである。原因は目の前で母親に作ってもらった黒い弁当箱を持っておかずを食べている高尾の姿を見ると、鼻の中がつん、とするのである。その度高尾はゲッ、真ちゃんなに涙目になってんだよ!と言うのだがオレは涙目になったつもりはない。
 ただ、そんな高尾にだけ言ってやる一言が「何でもないのだよ」これしかないのが、やはりオレは未練がないからだろうか。弁当を平らげる高尾は机の上に置いていた携帯を弄り始め、目の前で手を止めているオレの事など眼中にないようだ。
 まあ…、オレも高尾など眼中にはないが、良き友人であったことだけは、認めてやろう。


 残り二日。今日も今日で何気なく過ごす日常に変わりはない。オレは本当に明後日死んでしまうのだろうか。死神に言われて車に気を付けようとはしなかった。本当に明後日死ぬのか知りたくなったからだ。今のところ死ぬ気配は無し。死神は本物だったのだろうかと疑い初めてしまった。
 バッシュのスキール音を鳴らす体育館の床を眺めていると、隣にいた高尾は不思議そうにオレを見た後、同じ方向へ視線を向けた。オレは視線を高尾にやって、「帰る」と告げると、高尾は一瞬時を止めた後、目を点にしてオレの顔を見ながら「なんて?」と予想通りの台詞を吐いてくれた。

「帰る」
「…真ちゃんマジ最近どーしたわけ…。マジおかしいって」
「元々だ。帰る」
「んなー!許されるわけねーだろ!せめて上手いこと理由つけてから帰れよ!」
「やり残したことがある。だから帰る」
「はあ?真ちゃ…まじで」

 どうせ死ぬのであれば、せめてやり残したことくらいやってしまいたいと考えた。死ねば恥など関係ない。部室へ戻り、男の汗臭いにおいの中一人で制服に着替え携帯を右ポケットへ入れ、くさい部室を出た後の向かう先は校舎の4階にある美術室だ。体育館を避けるように校舎へ入り、ローファーを指に掛けて階段を上がっていく。
 そんなオレを不思議そうに見る生徒らの瞳は高尾と何ら変わりはなかった。幸い足の長さも関係して階段は二段飛ばしで上がって行った。すれば4階などほんの数分で上がっていけるだろう。
 本校の美術部員は驚くほど少ない。単純に絵を描く事が好きな生徒と漫画などの絵を描く事が好きな人と別れるからである。ただ、漫画研究部と美術部は混合され表向きは美術部なのだが、部員の大半数は漫画研究部に熱を出している。それに、今日は美術部の活動日ではないはずだ。それでもオレはその姿を探すのだから面白いものである。

「……、」

 机の上にリンゴとビン、ブドウを置いてその3つを見つめているのは隣のクラスの、オレが恋い慕う人の姿だ。顔に似合わず絵がとても上手だと風の噂で聞いた5月から先月までただ何気なくその姿を見つめていただけだったが、ここ最近なぜか彼女の姿ばかりが脳内に残っている。
 おそらく、オレがやり残したことは、この事だと思うのだ。
 彼女の名は高尾がよく喋繰りまわしていたのでよく知っている。高尾も彼女に気があることは1年生で知らないものはいないだろう。そっとドアの方へ身を寄せ、隠れるように息を潜めて彼女の後姿を見つめた。
 気がある、の他にももう一つの噂があった。高尾本人から語られることはないが、高尾と彼女が付き合っている、というものだ。もしや、高尾の部活が終わるのを待って、美術室で絵を描いているのだろうかと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
 どうせ死ぬのだ。やり残した事をしても許されるだろう。
 意を決して美術室へ足を一歩入れた。静かな美術室はオレの小さな足音さえ拾って、肩を上げた彼女はオレの方へ振り向いた。

「あ…緑間くん…?」

 たいして話した事がないのだから当然の反応だろう。

「高尾と一緒じゃないんだね」
「高尾がいた方がよかったか?」
「…?なんで?っていうかまだ部活中…え?なんで靴持ってきてるの?まさか抜け出したの?逃亡中、かな?」
「まあ…強ち間違いでもないのだよ」
「緑間くんって不思議な人だったんだね…。で、一体どうしたの?わたしとお話でもしに来た?」
「ああ」

 豆鉄砲を食らったような表情をし、持っていた筆を床に落とすと「ああ!」と高い声をだして側に置いていたティッシュを持ち床についてしまった油絵の具を拭きとり、ティッシュの上に筆を置いた。部室とはまた別のくささだ。正体は彼女の持つパレットが放つ、油絵の具のにおいだったらしい。

「緑間くん、後ろの棚の一番左の上から三段目にある引き出しに新しい筆あるから取ってもらってもいい?この筆もう捨てちゃうから。ボロボロで」
「ああ」

 彼女の言う通り、一番左の上から三段目の引き出しを開け、「油絵の具用」と書かれた袋に入った真新しい筆の袋を取り、彼女に手渡した。その中から一本筆を取って、白い容器に入った水ではない液体に筆先を付ける。

「で、どうしたの?部活を抜け出してまでわたしに話したいことって」

 と、言われてしまい今度はオレが時を止めた。そういえば特に話題にすることなど考えていなかったのだ。

「……高尾から聞いたんだけど、緑間くんってすっごいバスケが強いところにいたんでしょ?今度試合観に行ってもいい?」
「し、あい?…ああ、オレなら、構わないが」
「ホント!?今度試合いつあるの?インターハイ終わったから、後は練習試合だけ?」
「…冬にWCがあるのだよ。練習試合よりも公式戦を見たほうが面白いだろう」
「えーすごい楽しみー!絶対行く!」

 そうか。そうだったのか。
 彼女とこうして向き合って話すのは今日この時は初めてだった。顔や性格に似合わず繊細で静かな色彩を好む彼女の作品を見て恋に似た感情を抱き、その興味は次第に彼女に移っていき、恋をしたのだ。
 笑う顔が愛らしくて、目を輝かせるその姿は目に止まって、オレまで心が躍る気持ちになる。

「…緑間くんなんで笑ってるの?」
「?笑ってないのだよ」
「笑っていたのだよ!…今度モデルになってくれない?高尾じゃ『落ちつけねー』って動きまわっちゃうからさ」
「なぜオレを…」
「わたし筋肉美を書くのがちょー好きでさ!高尾の筋肉のラインがすっごいもう惚れちゃうくらい好きなんだけど、まああの性格だしモデルには向かないみたいで。この前の体育の授業で緑間くんの筋肉が高尾のよりもすばらしいものだったのでぜひモデルにと思いまして…わたしに筋肉描かせて!」
「変態な性癖だな」
「もう好きなだけ罵っていいから描かせてぇ…お願いします緑間くん」
「そうか。なら、今描くか?」
「…え?今いいの?」
「……ああ」

 彼女の表情が明るくなっていく。制服を脱ぎシャツのボタンに手をかけると、少しだけ恥ずかしく思い彼女の方に顔を向けると、彼女も恥ずかしそうにオレも見ていた。だが、まあ、いいだろう。オレは死ぬのだから、今更何を思われたって、どうでもいいことなのだから。
 シャツのボタンを一つ外した。

「最近、緑間くんおかしいって高尾が言ってた。まさか自らシャツ脱ぐなんて、きみも結構な性癖じゃない?今日抜け出したのも何かあって、ここに来たんでしょ?ただ話すだけなら今じゃなくたって出来ることだしね。きっと高尾にも相談できないことがあるんだろうね。部活抜け出してまで、いやになること」

 彼女の言い分は多少違ったが7割は正解なのだろうと思うのだが、どうにも頷けそうにない。まさかオレがもうすぐ死んでしまうなど、想像できるはずもない。
 シャツのボタンをすべて外し机の上へ置くと、彼女は静かに息を吐いてオレの鎖骨に手を伸ばし、そっと触れた。

「きれい」

 うっとりと、頬を染めて、目に光る膜を張って、溜息を吐くように呟いた。
 オレの腕は勝手に彼女の方へ向かい、バスケットボールを片手で持てる握力を持つ手でその健康的な手首を掴んで抱き寄せ、後頭部を持って胸に顔を当てさせた。逃げようとする彼女の体を抱きしめて後頭部の手を背中に回した。一回り小さい彼女の体を高尾は何度抱いてきたのだろうか。いや、本当は付き合ってないのかもしれない。けれど、ただなんとなく、決定的な証拠はないが、彼女は高尾と付き合っている。
 オレの良き友人、親友のことを、わからないはずがないだろう。

「緑間くん…?」
「…すまなかった。…モデルはまた次にでも、やらせてもらうのだよ」
「帰るの?もう脱いだし、今描きたい」
「ねえ 待って緑間くん」
「嫌じゃないから、今の、嫌じゃなかったから」
「待って、待ってよ緑間くん!」

 静かに目を閉じて最後のシャツのボタンを留め、制服を着た。彼女は上げた腕を下ろして、最後に一言だけ弱々しく緑間くんを耳に入れ背を向けて美術室を出た。
 オレは死ぬ。だからこそ、やり残したことを、済まそうと、したのだ。

 明日は土曜日。明後日は日曜日。明後日は久しぶりに部活が無い。階段を一段ずつ降りていく。
 好きだと一言告げればいいと思っていたのに、本能は正直なのだと実感した。階段を下り、まだ体育館からボールを弾ませる音にほっとしながらローファーを履き校門へ向かった。土曜日は一体何をしようかと考え、部活へ行って怒られるのも悪くないかもしれないと、自分をバカにするように鼻で息を吐いてから口角を上げた。
 その時だった。

「緑間くん!」

 膝に手を置き肩で息をする彼女は垂れる髪を勢いよく振ってオレに近付き手首を握る。包めない手首をギュッと握って、彼女は言った。

「わたし、緑間くんのバスケしてるところ見たい!かっこよくシュートしてるところとかすごく見たい!それに勉強も教えてもらいたい!ラッキーアイテムも毎日教えてもらいたいし、毎朝おはようって言いたい!だから、絶対緑間くんを描かせてほしい!緑間くんを残しておきたい!…って言い方はおかしいかもしれないけど…」

 なんとなく吹き出してしまった。初めてこんな風に笑ったかもしれない。

「月曜日」
「…月曜日?」
「月曜日にもう一度部活を抜け出す。その時に頼むのだよ」
「えっ また休むの?」
「月曜日で最後だ、抜け出すのは」
「……うん、わかった。その、月曜日、美術準備室で待ってる。美術室だと、ちょっと恥ずかしいから」
「そうか、まあ、上半身裸の男を描いているというのは恥ずかしいだろうな」
「じゃあ、その…また月曜日に。バイバイ」

 ああ、泣きそうだ。

「ああ、また、月曜日に」




 午前6時53分。車の音が響く風景。ポケットから携帯を取り出して、おそらく彼女と一緒のベッドで寝ているであろう高尾に電話を入れた。どう考えても日曜日に部活が休みならば、高尾のことだ、考えることは一つ。単純なバカで予想しやすい。
 ピッ。眠そうに高尾は答える。

「…ふぁあい…」
「高尾か」
「……あ、え、は、真ちゃん。…どったの」

 小さい声で「どったの」と言う高尾にオレは今までで最高の言葉をプレゼントしてやろうと思った。
高尾は驚いているのか返事がなく、ただひゅうひゅうと息を吐く音だけが聞こえる。

「賭けをしないか」
「はあ?賭け?」
「オレがもし今日死ななかったら、火曜日、オレと部活を抜け出してもらう」
「……真ちゃんさぁ。いやわかってたっつうか…。で、死んだら」
「………代わりに、モデルになってやってくれ」

 いや、もう全然意味わかんねーっすわ。高尾が言う。

「高尾、努力は怠らないようにしろ」
「はあ」
「高尾、感謝している」
「…はあ?」
「高尾」
「真ちゃん、今から会うか?」
「高尾、彼女によろしくなのだよ」

 午前6時59分。さて、どうなるだろうか。いやになるほど、空は青い。


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二度となくならないもの

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