例えば、と彼は必ずわたしと二人きりになって五分が経つとそう話を切り出してくる。ねえ、と静かに、赤い前髪を揺らしながら、立て膝に腕を乗せてゆっくりと双眼をわたしに向けて言うのだ。だから、わたしは五分が経つと自然に彼を見ていた。これは彼の策略だった。わたしが彼の隣にいることが当たり前のように、わたしは当たり前のように彼を見る。彼は何度「例えば、」を使えば気が済むのだろう。一見狂ったように毎日言うものだから、そういう風に思うようになってしまった。 「じゃあわたしも訊くけど、例えばわたしが征十郎の事、好きじゃないって言ったらどうするの?」 パチン、とそのあとの音が止まり、わたしの読んでいる本に目を向けて、ゆっくりとわたしの目にその双眼が映る。 「いつも難しい顔してると思ったら、そんなこと考えていたのか。その本を読んで悩んでいるのだと思ったのに」 「え?悩んでるって?」 「少しでも僕のしていることを理解しようとしてその本を貸して、だなんて言ったんだろう?でも難しいから怖い顔して唸るようにその本に目を向けていた。だけどわからなくって、理解しようにもできなくて、僕の相手が少しでも出来れば、自分を少しでも見てほしいから、まあそんなところを思いながら今まで必死になって読んでいたけれど遂にシビレを切らして僕にそんな幼稚な事を訊質問をしてきたんだと僕は思うんだが」 ドクン、と胸が波打ち、目の前の人物には勝てないと悟る。 二人きりになって三分経過したところで、彼が先に「例えば、」で話を切り出してくる前に、わたしは問うた。例えば、わたしが征十郎の事、好きじゃなかったらどうするの、と。彼は笑っていた。そして彼は続けた。わたしの本当の思いに彼は気付いており、わたしは到底この人の裏をつくことも驚かせることもできないのだ、今もこれからも。 「キミは僕にないものをたくさん持っている。そういう必死さも、可愛らしさも、笑顔も、心も、性格も、考え方も、誰とでも分け隔てなく接するその手のひらも、僕にはない。僕がキミに惹かれる理由はそこだろう。知ってると思うが独占欲が強い僕だから、キミみたいな陽気な性格が少し羨ましいと感じているんだ」 「それってさぁ…よく聞いてればバカだねって言ってるみたいだよ」 「そう言ったつもりだが」 「やだァ征くんヒドイ」 征十郎は将棋盤をわたしと征十郎が向かい合う席の真ん中に置いた。今まで指していたものを全部避け、また新しく駒を配置し始める。 「今日は特別に僕が教えてあげよう」 「ほんと?わかりやすくお願いします」 「まずは、シャツのボタンから外してください」 「は?」 「次に、スカートのチャックを外してください」 「コラ!」 手元に置いていた「初心者でもわかる将棋入門」の背表紙で征十郎の頭を軽く叩くと、彼は自分の駒を指していく。 「僕に勝てる方法はひとつ。僕の言うことに素直に従うことだ。ほら、言うことをきかなかったら僕がどんどん指してしまうよ」 「あああっ、ちょっと待ってよ…!ってかここ学校だよ!」 「承知の上だ。昼休み、誰かが『教室でやるのってなんか熱いよな興奮するよな』だなんていう頭の弱い奴が呟いててね、本当がどうか確かめたくて」 「征くん部活は」 「ああ行くよもちろん、でもまだ行けないな、脱いでもらわないと。だが遅れてしまったら部員になんて言われるか、キミでも想像はつくよね?」 「征くん、性格悪いって言われない?」 「ああ、言われるね」 パチン、パチン、と駒はどんどんわたしに迫ってきている。誰もいない教室で、静かな誰も通ることのない使われないただ静かな教室で、音は響く。 「イチゴは好き?」 「え?」 「イチゴ」 「…うん、好きだけど。どうしたの?」 「実家からイチゴが送られてきて、たくさんあって一人じゃ食べきれないんだ。だからおすそ分けしようと思ってね」 「ほんと!?嬉しい!」 「部活待っていられる?」 「うん!」 「なら、脱がなくていい。その代わり、家からお泊まりセットを持ってきてほしい」 「………征十郎」 「キミの例えばは本心だったのか?僕のこと、嫌いになった?」 そんなわけないじゃないか、わたしは征十郎が大好きでたまらない。その強い独占欲も嫌に感じない。わたししか見ていないその瞳の正体を知っている。この人はわたしを愛している。じゃなきゃ、一緒に洛山に来てほしいだなんて言わないもの。 「愛してますけど」 「持ってくる物は、そうだな、鞄につめられる下着と歯磨きセットくらいにしようか。服は僕が貸すことにしよう」 「なら途中デパート寄っていい?下着と歯磨きセット買うから」 「直行か。家が近かったらよかったのに」 「征十郎お金持ちじゃんマンションじゃん。わたしやっすいアパート馬鹿にしてんのかー!」 「なら一緒に住もうか」 「あほー!」 「いや、これは本心なんだけど」 彼はわたしのないものまでたくさん持っている。だからお互い補うようにして一緒にいる。それが愛という形で補うようになっている。 部活、大変じゃないの?って。疲れているんじゃないの?って。そう言ってあげたいけれど、夜一緒に寝て、朝一緒に登校できることが嬉しくて、わたしはその二つを心の中にしまった。駒を動かすその手に触れて「今夜は寝させないぜ」って言ってやった。征十郎は目をまんまるにしてプッと吹き出し、わたしの鼻をつまんで立ち上がる。 どうせ一緒に帰るんだから部活見においでよ、というお誘いに甘えて将棋セットを片付けた征十郎の元へ小走りで走り、教室のドア付近でいきなり背中に痛みと衝撃が走り、肩を征十郎が力いっぱい握っていて、腰を屈めて征十郎は互いの鼻と鼻が触れる寸前でピタリと動きを止めた。 「殺し文句?」 征十郎の息がかかり思わず顔を赤くして目を逸らした。 「僕は誰かに従うのは好きじゃないんだ、よく知っているよね、キミなんか特に。もしかして殺し文句じゃなくて宣戦布告だったのかな…?」 「あ、いや、宣戦布告なんて」 「なら殺し文句だったんだ。ふうん。面白いね、もう一度言ってみて」 先程鼻と鼻が触れる寸前だったはずなのに、今はもう触れていて、今にも噛みつかれそうだった。もう一度言えばきっと噛みつかれてちぎられてしまうだろう。ああもう勘弁してくださいよ征十郎ちゃん、といつもの調子なら言えるのに、征十郎は獣のように目をギラギラさせていてわたしは息をするのも忘れていた。「ほら」 「ごごご、ごめん、からかうつもりじゃっ…」 「からかっていたのか。それは心外だな」 「征十郎部活遅れちゃうってば!」 うん、そうだね。そう言った征十郎はわたしに噛みついた。噛みついた後、彼は言った。同じ台詞にも関わらず、なんでこう破壊力が違うんだろう、と部活に向かう途中に呟いてみたら、キミのも効果絶大だったよと本心の見えぬ声調で、わたしを見ずに、そう言った。 「『今夜は寝させないぜ』」と言う彼は、どこか嬉しそうで、わたしも何だか嬉しくなって、誰にも握られていないその手を握り締める。彼もわたしの手を握り返してくれて、体を寄せる。彼は微笑む。 ----- 宇宙への旅路 |