紫原敦 | ナノ
 掛け声と共に慣れた手つきでシュートを打ったバッシュのスキール音が体育館に響く。SFとして3年間と3ヵ月が過ぎ、こうして今日も先輩と混じってゲームをしている。
「いいなーSGになれば?」と同じSFとして体育館を走る友人がこの前昼食の時にわたしに何気なく掛けた一言が一週間頭に残っている。SGの先輩に頼んで一緒にシュート練習をさせてもらった事もあり、先輩も「転職すれば?」と笑って言っていた。
 中学時代、ずっとSFに力を注いできたから考えなかっただけで、少し環境が違ってくるとこうも視野が広がるのか、と今更になって実感していた。
 スポーツ推薦で陽泉高校に通って三ヶ月が経ち、秋田の雰囲気と寮の居心地の悪さが180度、良くなってきた時期だった。友人は大阪からこちらに来ているらしく、たまに家が恋しいと呟いていた。もちろんわたしも寂しいし、お母さんやお父さん、妹に弟
に会いたくなるけれど、ここの環境にも慣れてきて仲の良い友達だって出来たのだから、そんなに気にするほど家が恋しくないし、寂しくもない。
 ただ、中学時代の彼氏の反応が心残りだった。今も尚、あの人の表情が忘れられない。それに完全に別れたわけじゃなく、彼も京都の高校へと進学してしまい俗に言う遠距離恋愛というものだった。携帯にはまだ彼の電話番号とメールアドレス、誕生日に貰った質素なメールも残っている。
 いつもと変わらない日だったはずなのに、部活が終わって彼を待ち、ぼそりと呟いた一言に、彼はひどく驚いていて、目も大きく開かれていて薄く口が開いたままわたしを見つめていた。
「っあー、ゲーム終了!一年モップ掛けねー、二年は球拾い!」主将の言葉に女子バスケ部の一年、二年生は「はーい」と気の抜けた返事をした。
 時計の針は部活終了の七時を指していた。


「SGにでもなるつもりー?」

 顔を上げると2メートルを超える身長の持ち主で鮮やかな紫の髪色を持つ、中学時代でも幾度と世話を焼いた紫原がわたしを見下ろしていた。ローファーの踵に指を入れていたわたしは態勢のキツさにすぐに顔を下げて踵を通し、身を上げる。腰を曲げていた紫原も動きに合わせて腰を上げたまま、前髪を垂らして見下ろしていた。

「なんで?」
「だってさっきのゲームで3Pばっかだったじゃん」
「えへへ、かっこよかったっしょ」
「別に。女子にかっこいいもクソもねーし」

 紫原が大きい手を入れているポケットの手首には、今日女子から貰ったお菓子がスーパーの袋にたくさん詰め込まれていた。
 わたしが歩き出せばワンテンポ遅れて紫原も歩き出した。普段、友人と肩を並べれば身長の事など気にもならないのに、紫原と居る時だけなぜか身長ばかりを気にしてしまう。男子と女子なんだから当たり前だと皆は言うだろうけれど。

「紫原はさぁ、もっと練習に熱入れていかなきゃ」
「そういうのホントうっとおしいっていうかー、めんどくさいっていうか、うざいんだよねー」
「折角上手なのに勿体ない」
「だからぁ そういうのうぜーって言ってんだろ」

 ぼりぼりとカスを制服に落としながらまいう棒を食べる紫原に「食べながら喋らないでよ」と睨みを利かせると、わたしの睨みなど彼には効いていないようで、一目わたしを見た後すぐに視線をお菓子に落とす。

「つーかさ」

 またカスを制服に落としていった。

「SGすっげー似合わなかったし」
「そうやって人の事すぐにバカにする!うざい!」
「はあ?誰に向かってうざいとか言ってんの」
「アンタにだよ」
「うぜー」
「うざー」

 中学時代は女子版キセキの世代と呼ばれた事もある。彼、赤司征十郎と彼氏彼女の間柄でキセキの世代とも面識もあって仲も良かった。無敗だったわけではないが、それでもゲームでの得点ではいつもわたしが一番多く取っていて、球技大会ではいつもバスケの種目で引っ張りダコだった。
 そう、高校へ来てもやっぱりゲームの得点は一年生の中ではわたしは群を抜いていた。それに、選手兼マネージャーといったところだ。情報分析力も評価できるのだそうだ。今になって青峰が言っていた「オレに勝てるのはオレだけだ」がよくわかる。一年で目立ちすぎて、こうして裏方の仕事をしてチームのバランスを保っている、ということだ。

「あのさー」
「?」

 珍しい、いや、稀、なんというか、驚いた。まさか紫原から話しかけられるとは思わなかったからだ。こうして二人きりになることも珍しいが、二人きりになって、紫原が話しかけるなど何かあった時にしかない。思わず身を縮めて返事を返す。

「なに?」
「…赤ちんから連絡あったんだよね。どうしてるって」
「……あ、そう」
「最初オレの事かと思って『お菓子食ってるー』って返したら、オレのことじゃなくてアンタのことだった」

 いつの間にか紫原のまいう棒は無くなって、カスのついた袋だけがブラブラと揺れている。

「自分で訊けばって言ったら、オレも吃驚したんだけど、赤ちんどもってさー。まだ付き合ってるんでしょ」
「…その、まあ遠距離、みたいな?でも連絡し合ってないし」
「当たり前だよね。してたらオレんとこ連絡こねーよ普通」
「すんません」
「赤ちんかわいそー。こんな女が彼女で」
「こんな女とはなんだ悪かったな」

 微妙な雰囲気が流れてしまったがこれはわたしのせいではなく、紫原のせいだ。何もこんな寮に向かう途中の通路で言わなくてもいいじゃないか、と段々赤くなる顔を垂れる髪で隠しながら心の中で紫原を叩く。
 しかし、紫原に迷惑をかけてしまったのは事実だ。やはり四月にメールを無視したのがいけなかったのかもしれない。聞こえは悪いがちゃんとした理由はある、部活の疲れで無視せざるを得なかったのだ。やはりきちんと返しておくべきだった、と後悔先に立たず、寮に戻ったらすぐにメールを返すことにしよう。

「あのさー、てかずっと思ってたことなんだけど」
「うん、なに?」
「赤ちんと早く別れてほしいんだよね」

 通路の電球で紫原の鮮やかな紫が綺麗に光る。かすれた声で「なんで?」と訊いた。紫原は面倒くさそうに溜息を吐いて、わたしの問いを避けるかのように新しいお菓子を取りだした。封を開けてラムネを頬張った。

「こういうとこで天然ぶるんだ」
「ま、いいけど」
「別に赤ちんだろうが誰だろうが関係ねーし」

 わたしは立ち止まり、目の前の大きな人物を見つめる。
 紫原は隣にわたしがいない事に気付いて足を止め、振り返った。

「ねえ…なんで?」

 先程よりもかすれた声で紫原に問う。
 ガリガリ、ゴリゴリとラムネを歯で割る紫原の頬が止まり、気だるい目はわたしの目をしっかりと捕えている。わたしは泣きそうになった。何故だか、わたしは泣きそうになってしまった。

「…アンタを追いかけてここに来たようなもんなんだよね。元々オレもここから推薦来てて、蹴ろうと思ったけどたまたまアンタが陽泉の推薦貰ったーって聞いた時ラッキーって思って進学したし。…赤ちんのとこ行かないってわかって、喜んで…」

 紫原は口をぎゅっと結んだ。

「ねえ、もっと言わないとわかんないわけ?」

 スーパーの袋が揺れて、まいう棒が落ちた。紫原は長く喋っていた間にも袋から新しいまいう棒の封を開けていて、落ちたまいう棒を拾おうと腰を曲げた時、まだ一口もかじられていないまいう棒が地面に落ち、カスを振り撒いて転がった。「あーあ、もったいねー」

「知らなかった」
「当たり前じゃん。言ってないんだから」
「…そんな素振り、したこともなかったじゃん」
「…赤ちんの目の前でんなことできるかよ。気付いた時にはもう隣に赤ちんいてどうこうの問題じゃなかったし」
「そうなの?」
「うぜー」
「………紫原」
「……あのさー、オレこういう雰囲気ダメだからさー、なんか返事してくんない」

 ああ、ごめんなさい、と、言うしかなかった。ただそれだけなのに何故か喉も口も動いてくれなくて、わたしを見下ろす紫原を見つめることだけしかできない。

「紫原、」
「あーわかってるからいいよ別に あんたが赤ちんから離れられない事わかってっから。余計なこと言わなくていい」

 紫原の汗のにおいがする。練習で汗をかいた紫原の頑張った証だ。うざいだのめんどくさいだの、そんな屁理屈を言っているが彼はやっぱり、頑張っているのだ。鼻で息を吸って吐いた。

「あっ そうだ!今日調理実習の時間にマフィン作ったんだ〜食べる?」
「マフィン?それって甘い?」
「好みじゃない?洋菓子だからお菓子ではないけど」
「食えるの〜?それ」
「大丈夫、班の皆で作ったから!どうせ誘惑に負けて夜中に食べちゃうからさー」

 平然を装って鞄の中から透明の袋の可愛げのないラッピングのマフィンを紫原の顔の前に差し出した。背伸びしたがやはり巨体である紫原の身長にずっと合わせていられるはずもなく通路に踵を付けて結局は顎の前にマフィンを差し出す形となってしまった。

「……どーも」

 素っ気なくそれを受け取った紫原はポケットから手を出し、両手で袋を開けてマフィンを丸々一個口の中に入れた。

「おっきなお口」

 震えていた手を後ろで組んで「どう?」と首を傾げて見上げる。大きく顎を上下させ頬をいっぱい膨れ上がっている紫原は「んー」と言いながらごっくんと音を立てて飲み込んだ。

「まいう棒のコーンポタージュには負けるかな」
「お菓子と比べないでよ!手作りってところが大事なの!」
「赤ちんに手作りあげたことある?」
「え?ないけど」
「そっかー、じゃあいいよ。また貰ってあげる」
「上から目線やめていただきたい」
「うぜーこういうとこ絡んでくるのうぜー」

 ラッピングをスーパーの袋に詰め、両手をポケットに入れて大股で歩く紫原の後ろを歩くが、足の長さも手の長さにも敵わないわたしが歩いて追いつけるはずもない。走ろうか、と思ったけれど、その後ろ姿をみて走るのはやめておいた。
 追いかけてはいけない。
 遠くなる紫原の大きな背中はすぐに追いつけそうなのに、手を伸ばしたら掴めそうなのに、追いつけない。


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さかあがり