カルピス | ナノ

 いつもと変わりない日常だったはずなのに、万斉が告げた一言でいつも通りの平凡な一日は一変した。朝食にと食べていたコロッケパンが地面に落ちて、周りの皆がざわつき始め、万斉の後を追ってきた武市と来島が万斉の名と、わたしの名を呼んだ。まさかわたしの名が呼ばれるとは思わなかったから、声もでない喉を震わせて、先生たちの目も気にせず万斉のこぐ自転車の荷台に跨った。
 手術中と表示された赤いランプを見つめ、このドアの向こうに高杉がいるのだと思うと胸が苦しくなった。万斉の話によると、高杉は万斉と二人で登校中、目の前を通った猫が車が激しく行き交う道路に出て、轢かれそうになったので、高杉は助けようと道路を飛び出しこんな大怪我をしてしまったらしい。高杉の良心に涙する感動ストーリーだったのは途中までの話。助けられた猫はそのままどこかへ走り去り、万斉は怪我をした高杉をおぶって病院に連れてきた。高杉が手術中に学校へわたしを迎えにきたのだった。
 来島は落ち着かないようすでドアの前をくるくると回りながら、晋助様晋助様と苦しそうな表情で無事を祈っていた。わたしは側のベンチに手を組んで座り、万斉の隣で病院の独特な香りと来島の声を耳に入れながら高杉が助かりますようにと神様に祈った。ポケットに入っている携帯が何度か揺れたが、そんなものに気を使えるほど心の余裕はなかった。
 14度目の携帯の震えが止まった瞬間に赤いランプが消え、ドアが開いた。ドタドタと後ろから走ってくる音が聞こえて振り返ってみると、担任の坂田と校長と学年主任の先生が顔を真っ青にしながら近付いてきた。
「高杉…!」
 坂田が一目散に高杉の元へ走ってきて、医者に注意されながらも大声を出して高杉の名を呼んだ。高杉はまだ麻酔の効果が続いているらしくて坂田の声に「うっせーよ甘党」とバカにした声で返事はしなかった。
「先生はこちらに」
 坂田、校長、学年主任は医者に連れられてどこかの部屋に入ってしまった。取り残されたわたし達は高杉の病室はどこにあるのかと訊いたが、看護婦さんは答えてはくれなかった。面会の許可がおりたら教えてくれるらしい。
 待合室にわたしを含め万斉、来島、似蔵、武市の四人は高杉が心配でずっと高杉のことを考えた。昨日はあんなに喋って笑って顔を赤く染めあったのに、なんでいきなりこんな非日常なことが起こってしまったのだろうか。まさかこんなにも身近な人がこんな事態を招くなんて。
「晋助様…」
 遂に来島は泣きだした。その背中を擦れるほど仲良くはなかったし、わたしだって背中を擦ってほしかった。来島の啜り泣く声と、普段聞かない坂田の真剣な声が被った。
「お前らとりあえず学校行け。今日は高杉に会えねーし、やれることと言ったら無事を祈ることくらいだろ。」
 坂田の言ってることは正しい。しかし来島はその場を立とうとはしなく、側にいれなくとも一緒の建物にはいたいと言って地面に根を張ったように動かなかった。万斉や似蔵が説得をして渋々来島を立たせることができた。
「あ?苗字以外チャリンコなわけ?」
「万斉、申し訳ないけど…、運転お願い…」
「教師の前でそういうこと言ってんじゃねーよ。苗字は車。あとはチャリ置いてくことできねーんだからこいで来いよ。」
 ポケットから車のキーを取り出した坂田は、行くぞと言って制服を引っ張った。強制的すぎる。校長と学年主任は病院に残るらしい。
 病院を出て駐車場に入る。先生のおんぼろ車の助手席に座り、溜めていた息をどっと吐くと、なんだその溜め息は、と坂田がハンドルを握りながら窓に身を乗り出して後方を確認した。坂田の車のキーについているマカロンのキーホルダーが揺れる。
「高杉のやつ、当分歩けねえみたいよ」
 煙草に火を付けた坂田は煙を一息吸った後、苦手だったかと言って火を消した。わたしの表情を見て消したみたいだった。
「歩けないって?」
「車椅子生活になるってことだ。回復してリハビリすれば元通りに歩けるんだろうが、何年先になんのかわかんねえって医者が言ってたぜ。すぐ治る骨折だったらかわいいもんだ。見舞いにいちご牛乳買ってやれ。糖分とカルシウムが取れる。一石二鳥の飲み物だ。」
 ポロポロと目から涙が落ちていった。あんなに元気だった高杉が歩けないだなんて。昨日まで、あんなにやらしく腰振って笑ってわたしに好きだって何回も言ってたあの高杉は、今度は交通事故に遭って歩けなくなってしまっただなんて。こんなドラマみたいなこと、テレビの前でしかみたことなかったのに。猫を助けてあげようとしただけなのに。
 頭を撫でる坂田の手は、あの時の感じなかった優しさが込められていた。誰か来島の背中を擦ってあげてほしい。彼女もわたしと同じくらい、いや、わたし以上に悲しんでいるはずなのだ。