カルピス | ナノ

 最近学校周辺に通り魔が現れたらしく、先生たちも生徒皆に注意しなさいとよく聞かせていた。

 通り魔の事件ファイルその1、下校中の生徒を車に引き入れようとする。事件ファイルその2、生徒の前でいきなりズボンとパンツを脱いで公開オナニーをする。事件ファイルその3、生徒をストーカーして家の前まで付いてくる。(女子生徒のみ)
 通り魔の事件ファイルその1、生徒の背後から塩酸の入った小さな瓶を投げつける。事件ファイルその2、カップルで帰宅している生徒の背中に刃物を突き付ける。事件ファイルその3、醜態を写真で撮って、そこら中にばらまく。(男子生徒のみ)

 担任の坂田も、一応気を付けろよ〜、と言っていたが、あんたが一番危ないんだよ。とボソリと心の中で呟いた。「そんな奴見つけたら一発蹴りいれてやるヨ!手柄は私のものネ!」先陣をきったのは神楽で、続いてお妙さんがどうのこうのとかなんとか言って立ち上がり拳を高く上げたのは近藤だった。
「最近、物騒なのが多いな」
 頭をガシガシ掻いて困ったように眉毛を八の字にするのは隣の土方。
「ほんと、物騒なの多いね」
 ぽつりぽつりと呟く会話だった。
 こんなこと言うなんて、オナラ臭くね?と言った人がオナラしてた方式に従って、まさか犯人は土方じゃないのかなーって思ったけれど、犯人は五十代くらいの頭が禿げて歯並びが悪いおっさんらしい。そんなのに追い掛けまわされるのって迷惑の前に気持ち悪いよ。逃げても逃げても追ってくるおっさん、車の中に引きずられて何されるかわからない、公開オナニーでおっさんの喘ぎ声と我慢汁と精子の塊をみなくちゃいけなくなるんだ。トラウマになっちゃうよ、トラウマに。神楽だって可愛いんだし、何されたっておかしくないんだよ。妙は…、大丈夫だ。

 帰り道、薄暗い道を一人とぼとぼと歩いていた。バイトで一番つらいことは先輩の寒いダジャレを聞かれされることだ。今時流行らない「ふとんがふっとんだ」ではなく、意味不明のどことどこがどうなってこことここがどうなっているのかわからないダジャレである。聞かされる身になってほしい。今日はついていないのか、おでんの汁を手にかけてしまうわ、からあげを落っことしてしまうわ、休息がなかったで、いつもより倍に疲れた。こんな時癒しがあったらなあ、星空を見ながら思う。
 すると後ろから人の歩く音がした。地面をスニーカーで擦る音と、人の息遣いの音だ。これは、まさか。一瞬ひやっとしたが、ここは学校に近くないので通り魔ではないだろう。
 なんとか振り切ろうと歩く速度をはやめた。後ろについてくる人もわたしの歩く速度に合わせてきて、完璧にストーカーまがいのものだと確信する。走ってどこかコンビニの中に入ればこっちのものだ、親を呼んで迎えにきてもらえばいい。
「ちょ、まてって!」
「うぎゃう!」
 スカートを掴まれ反射的に受け身を取った。「はあ、ったく逃げんじゃねーよ」銀色の髪の毛を掻きむしる姿は担任の坂田のほか誰でもない。やる気のない目は変わらないが、格好は学校で見る白衣ではなかった。Tシャツにジーパンのラフな格好。
「………、」
「なにそんなに俺のこと見つめちゃって…。あ、ああ、ああ、もしかして、先生に惚れ」
「違うから、惚れないから。随分と簡単な服装だなーと思って。地元なの?」
「ここ曲がるとおんぼろアパートあんだろ?そこに一人寂しく住んでるわけ。あーあ華がほしいぜ。例えば名前ちゃんとか名前ちゃんとか苗字さんとか」
「わたししかいないじゃん。それじゃ、帰るんで。」
「帰んのかよ」
「今日は疲れたの。色々とミスしちゃったし。帰ってお風呂入って即行寝るの。」
「お前ずっこけてたもんな。それでからあげ落としてたし」
「そうそうずっこけ…え、なんで知ってんの」
「これ、担当した覚えあっかよ」
 坂田が左手に下げていたコンビニ袋からオレンジジュースが出され、きれいに空に弧を描きわたしの手の中に収まった。ナイスキャッチわたし。
「覚えてない」
 え?ということは、坂田を目の前にしたと?
「くれてやるぜ、それ飲んでちったあ元気出せや」
 肩をコキコキと鳴らし坂田は背を向け歩きだした。元気だせって、なんで元気がでないのか坂田はわかっているのだろうか。絶対わかってない。あの行為が衝動だっていうこともわかっている。わたしみたいな子どもに大人の坂田が発情するわけあるまいし…。
「あのさあ…わたしが元気でないの坂田が原因なんだけど…」
「あぁー?」
「初めてを坂田に持ってかれて、ショック受けてんだけど」
 呆れる。
 ゆっくり振り向いた坂田の顔は暗闇でしっかりとは確認できないが、目をまんまるにしていることだけは確認できた。こんなに大きく開かれる坂田の目はそう拝めるものではないのでしっかりと目を見つめる。
 まんまるにされている目はいつのまにか三日月になり、肩を揺らして小さく笑った坂田は、「なに、おまっ、まじでか、そんなに気にしてたのか」と言った。「ま、まじ、だよ」先日のことを思い出してきて、顔の熱が一気に上がってきた。思い出さなければよかったものを。
「そりゃ悪かった。しかしなぁ、思い出すだけで股間に熱が籠ってくるぜ。教師と生徒、しかも生徒は処女。男が好むストーリーなのは確かだな。」
 近付いてくる坂田が怖くなり、一歩、また一歩と坂田の歩数に合わせて下がるが、坂田の足の幅にはどうしても勝てなかったようで、一瞬のうちに坂田は目の前にやってきてがっちりと肩を掴む。その手の甲を抓ると、いててっ、と漏らした坂田は肩を離し空中で手を振った。
「んだよ、」
「んだよじゃない。んだよじゃないよホントに。それ以上言ったらお母さんに言うから。そしたら本当におさらばだね。」
「名前はそんなことしねーって先生信じてるよ」
「勝手に信じてろ。じゃあね。おやすみ。一生目が覚めないようにお祈りしておく。」
「どこぞのドS野郎みたいに呪術はやめてくれよ〜」
 坂田を通り越して近道を通る。こう考えると、わたしも相当変なことしたな、と振り返っては落ち込んだ。別に初めてを誰にやったって構わないと言ってしまえばそうなのだが、それは恋人同士であっての話だろう。坂田とは教師と生徒という関係、誰これの問題ではないのだ。恋人だったら、高杉でも土方でも沖田でも桂でもゴリラでも構わない。だけど、
 痛い痛くない、うまいうまくない、そんなの関係ない。でももう終わってしまったことでもある。諦めるという手もある。諦めきるようにするという手もある。だけどその手をどうしたら使えるのか、わたしにはわからない。まだ取得していないスキルであって、いつまでも恋愛しないわたしは経験知も上がらずずっと恋愛レベル1のままだから、限界がある。
 コンビニで買ったゼリーを夜食べよう、と眠い目を擦った時、またスカートが掴まれた。「うぎゃあ!」一気に距離をとり、受け身の形を作った。街灯のない場所だから、完全に顔が認識できない。今度は知らない人にいただきますされちゃうのだろうか。ガツガツ食われてしまうのだろうか。どうかわたしをフルコースには入れないでくれ!
「よお」
「…えっ、高杉!?」
「随分驚いてるようだが、なんかあったのか?」
「いいいいいや、いいやいや!なんでもない!どうして高杉が」
「そろばん塾がこの辺なんだよ。で、なんだ、こんな時間に」
「それはこっちの台詞なんですけど。こんな時間までそろばんパチパチやってたの?」
「明後日検定あんだよ。」
「熱心だね〜それを学業に持ってくることができれば天才だよバカ杉」
「お前はいつか一発でいいから思い切りぶん殴りてえ」
 バイクでも原チャでもない、チャリンコを引いている高杉は爆笑もんな光景である。前に手提げバックを入れている青いチャリンコだった。帰り道を訊くと、そのまま真っ直ぐとだけ言った高杉は足を勧めた。生憎、わたしもそのまま真っ直ぐに行くと家があるんだよ。
 始めのうちは会話もなかったが、わたしがバイト中にしでかした失敗エピソードを話してみると、バカはてめーだろバカと眼帯を揺らして笑った。眼帯が、とても痛そうだったのだ。
「…目、痛くないの?」
 訊いて後悔して、自分の行動に恥じらいを持った。痛くないわけないじゃないか。笑っていた口元は固く閉ざされたと思ったら、ゆっくりと息を吐いた高杉は寂しそうに笑う。
「痛いっつったら、痛み和らげてくれんのか?」
 やっぱり、痛いらしい。
「病院には行ったの?」
「行ってねえ。」
「写輪眼のほしさに喧嘩して、こうなってしまったの?」
「俺は写輪眼よりも白眼がほしい」
 普段弱音一つ吐かない高杉は、やっぱり二人きりになっても、周りに誰もいなくても、弱音は吐かなかった。弱音紛いのものはあるけれど、それは高杉は自分に言い聞かせるようにいったことなんだと思う。
 前輪と後輪からキリキリと音がして、油をさしてないんだなあ、と家の庭の棚にある、家族兼用のチャリンコにさす油を思い浮かべる。今度貸してやるか、買ってやろうかな。
 隣から熱い視線がこちらに集中しているのに気付き、ハッとして顔を向かせた。
「てめえ銀八と会ってたろ」
 ギクリの効果音とビクリの効果音が同時に発動し、固まる。高杉と坂田は付き合い長いからいろんな事を知っているらしい。長所も短所も知ってるみたいだ。今更弁解したって嘘をついたってどうしようもない。渋々と頷くと横から高杉の手が顎を掴み、一気に高杉の顔が視界に広がる。坂田とのことを思い出して、つい反射的に高杉の頬を殴ってしまった。
「いてーよボケ」