海が一番きれいなとき | ナノ


 下の階に女の子が越してきた。小柄でちょっとふっくらしている、色白で笑顔が可愛い女の子だ。俺がバイト帰りに、名前ちゃんのためにチーズケーキと紅茶のクッキーを持って帰って時のことだった。その子がドアの前でオロオロしていたので、どうしたのだろうと思い声をかけた。女の子は鍵を忘れて家に入れないと涙目でいうので、大家さんに言えばいいと言って階段を上がり帰ろうとしたら「大家さん寝てて気付いてくれないの」と服の端を掴んで呼びとめられた。仕方なくドアをおもいきり叩いて大家さんを起こし、無事に女の子は家に入ることができた。今度こそ帰れると階段に体を向けると、お礼をしたいからと女の子はまた服の端を掴んで、俺を部屋に入れた。俺の部屋と違い、可愛い雑貨などが置いてあり、いかにも女の子の部屋だと思わせる風景だった。「ありがとうございます」と麦茶を目の前に出され、右手に持ってるバイト先の袋とチーズケーキ、クッキーは名前ちゃんの為じゃなく、目の前にいる女の子に渡してしまった。
「ありがとうございます、猿飛さん。挨拶の順番間違えちゃいましたね」
 上の階に名前ちゃんが俺のことを待ってると思うと、手が一瞬だけ震えた。

 それからだ。俺は女の子からの積極的なアプローチに襲われるようになった。バイトで遅くなった帰りには必ず、女の子は階段に座っていて、おかえりなさい猿飛さん、と名前ちゃんより先におかえりなさいと言われるようになった。家に帰って名前ちゃんがおかえりと言われる度に目を伏せながら震える手を押さえ、ただいまと言う。これも、女の子に一番先に言うようになってしまった。
「ねえ猿飛くん」
「んー?」
 歯磨きをしていると、名前ちゃんが冷蔵庫からいろんな種類のケーキやクッキー、マカロンを出してきて、
「これ、夕方下の階の子から貰ったんだけど」と言った。目ん玉が飛び出るような気がして、急いで口を濯いで、本当に?と訊くと、名前ちゃんはワンテンポ遅れてから、うん、と言って椅子に座った。
「この間貰ったからって、お返しに貰ったよ」
「あー……、そっ、か……。…食べる?」
「でも猿飛くんが貰ったんだし、猿飛くんが食べなよ」
「こんな量一人じゃ食べれないって」
「…わたし、いらない。」
 名前ちゃんは数秒間何も言わずに俯いた後、立ちあがって畳の部屋に入っていった。机の上に出されたケーキの箱とクッキーの袋、マカロンをそのままにして名前ちゃんの後を追い、畳みの部屋の襖を開けて布団に入ろうと上げた手を掴み、離してと抵抗した名前ちゃんを抱き締めた。
 あのチーズケーキとクッキーは名前ちゃんのために持って帰ったものだったことを、伝えたかった。だけどそれを弱虫な俺の部分が言葉にしなかった。
 抱き締めて、キスをして、舌を入れて、唇を舐める。布団を剥いでシャツの中に手を入れ、ブラジャーのホックを外した。
「猿飛くん、やめてよ、したくない」
 胸を揉めばその気になると思い、外れたブラジャーを投げ捨てて、露わになった胸の素肌を感じながら掴むと、名前ちゃんは大きな声で猿飛くんと静止の声を出した。驚いて手を止めれば、顔を赤くした名前ちゃんは俺の手を掴んで服の外に出し、ブラジャーを持って部屋を出た。
「あー…バカした」
 頭をガシガシと掻いて脱衣所に向かうと、ドアのガラスから人影が見えた。ドアノブに手をかけたが、ドアの向こうの服と服が擦れる音に手を下ろし、息を吸って、
「ごめん」と、思ったよりも小さな声が出た。
 しばらくの沈黙のあと、名前ちゃんが口を開いた。
「帰りが遅かったときの、あれ?」
「…あ、うん」
「…あんな時間までバイトしてるはずないよね」
「…うん」
「じゃあ、あの女の子の部屋にいたの?」
「………うん」
「わたし、邪魔者だよね。居候させてもらってるのに。…ごめんなさい。ごめん、なさい。本当にごめんなさい。」
「どうして謝ってんの」
「だって猿飛くん、猿飛くん、あの女の子と一緒にいたんでしょ?ずっと、あんな時間まで、ずっと、一緒に。あの子、可愛かったから、わたし居候だし、口出ししたってなにしたって、ダメだって、でも、猿飛くん、あの子の部屋にずっと、ずっと、いつも9時に帰ってくるのに、11時に帰ってきたから、わたし、」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って!勘違いしないでくんない!?俺あの子となんもなかったんだよ!ただあの子がずっと喋ってるからテキトーに会話してただけで、なんも起きなかったよ!」
 名前ちゃんの顔を見ながらあの時の説明をしようと、咄嗟にドアを開けると、涙を流している名前ちゃんが俺を見上げた。ハッとした名前ちゃんは俺に背を向けて目を乱暴に拭く。愛くるしい名前ちゃんの背中にさっきよりも優しく、覆いかぶさるように抱き締めると、息を止めた名前ちゃんは肩を上げ、顔を手で隠した。
「ごめんなさい」
「なんで謝ってんだって」
「だって、わたし…、わたし、嫉妬、して」
「え?」
 嫉妬?名前ちゃんが、俺とあの子の関係に?
「嫉妬…?」
「ごめんなさい、」
「……いや、嬉しいよ」
 首元に顔を寄せて、名前ちゃんの香りを堪能する。いい匂いだ。ボディソープの、いい匂いだ。
 首に舌を這わせ、名前ちゃんから漏れる声を耳に入れながら抱き締める力を強くする。
「猿飛くん、」
「わたし、猿飛くんのことが、」
 名前ちゃんをこちらに向かせ、唇に食いついた。舌で歯をなぞり、無理矢理名前ちゃんの舌と絡めて、力を無くしたところで壁に追いやった。唇を離して名前ちゃんの顔を確認すると、口の端から出た唾液を拭き、こちらを見上げる。
「もったいねえ」
「え?」
「よだれ」
「そ、そうかな」
「くれよ、よだれ」
「やだ、変態みたいだよそれ」
「男は誰だって変態ですよー」
 手を握り、キスをする。今度こそ、名前ちゃんはそれに答えてくれた。厭らしく舌を吸いながら、胸を揉んでいく。名前ちゃんが俺の下半身を撫で、股に手を置いたところで、反射的に唇を離す。
「好き」
「……そういうのは男が言うもんだろぉ」
 好きだ。愛おしい。ぐちゃくちゃにしてやりたい。