海が一番きれいなとき | ナノ


 名前ちゃんは可愛い。そこらの女の子よりもすごくかわいい。仕草も可愛いし、変なところで天然なところも可愛い。バイトを一生懸命やっている姿もいい。俺が作る料理を一生懸命に見るところも、とてもいい。裸になって体を重ね合わせてから、俺の名前ちゃんを見る目が180度変わったような気がする。根本的なものは変わってはいないが、感情の持ち方がガラリと変わった。名前ちゃんの笑顔を見ると無性にキスしたくなったり、いじめてみたくなったり、抱きしめたくなったりする。前のように、理性で抑えられるか不安になるくらいに。
 彼女の魅力は素朴さにあるのだと思う。一定の距離を保ちながら、今ある距離で親密に接してくれるのだ。俺も話掛けやすいし、笑いやすい。話しやすいし、気持ちがいい。
 今日は俺も名前ちゃんもバイトがなくて、夕食のカルボナーラを食べたあとバラエティ番組を見ながら談笑していた。昔から大好きだと言うお笑い芸人のギャグがツボなのか、名前ちゃんは声を上げて笑った。面白くないと感じるものもあったが、隣で笑う子もいるのでつられて笑ってしまう。
 買ってきたチューハイのプルタブを開けて、ほんのり酔ってきたかなと思うくらいの酔いのまま一気に半分まで飲んだ。名前ちゃんはお酒が苦手なのか一口も飲んでいない。
「飲まないの?冷蔵庫にあるよ?」
「ううん、わたし全然大丈夫だよ」
 これあるし、とコップを持ちあげた。中身はポンジュースだ。柑橘系の食べ物が好きなので、飲み物も柑橘系のが好きなんだろう。
 なんだか、本当に恋人同士のようだと思った。こうして隣に座って談笑して、気もあまり使わないでいられるのが嬉しい。名前ちゃんと付き合える男は幸せもんだ。俺が保証する。
 こうして笑いあえるのも、ほんの一時的なものなのだと思うと少し寂しい気持ちになる。
 ポンジュースを飲んだ名前ちゃんは1リットルボトルのポンジュースとかかれたペットボトルの蓋をあけた。
「俺にも」
 ちょっと酔ってきたが会話や態度に支障はない。ジュースを飲んで落ち着こうと、氷が揺れてカラン、と音がなった。
「なんか酌してるみたい」
「うん、名前ちゃんがしてくれて嬉しいよ」
「そう?ジュースだけど」
「じゃあ次はお酒お願い」
「はーい」
 居酒屋で働いたことがあるのか、とても器用に、慣れた手つきでペットボトルが斜めに傾き、程良くコップにジュースが注がれていく。彼女の濡れた髪の毛が揺れた。
 そう、俺らは恋人同士でもなければ、昔からの知人でもない。キスをしたって、セックスをしたって、一時的な快感を求めているだけで行為を行ったわけであり、今の関係以上になりたいと彼女は1ミリも思っていないだろう。俺は少なくとも、ない、とは言い切れない。事実、俺は名前ちゃんにとても好印象を抱いているのだ。
 氷が溶けて、水とジュースが混ざっていっていくのを感じた。コップに口を付けたまま、テレビに食いついている名前ちゃんの後ろ姿を見守る。
 かわいいな、
 ガバリとこちらに振り向いた名前ちゃんの表情は驚いていた。目が大きく開かれていて、テレビを指差し
「このマッチョが!?」と、声を上げた。
 やべえ、声に出てたのかよ。
「いや、そのマッチョじゃなくて、後ろの…」
「だって猿飛くんが言ったタイミングにはもうマッチョがネタやってて他の人出てなかったよ!?もしかして猿飛くんってこういうマッチョ系の人が好きなの…!?」
「いや!それはホントにないから!安心して!女の子が好きだから!」
 そしてきょとんとした名前ちゃんは、そっかあ、と腕を下ろし、言った。
「猿飛くんの好みってどんな子?」
 まさにあなたですとは言えず、コップをテーブルに置いて、そうだなあと考えるふりをした。ここで名前ちゃんを例に言っても、きっと気付かないだろう。気付いても、ふざけて名前ちゃんだと言っても、冗談と捉えるに決まっている。
「かわいくて」
「うん」
「天然で」
「うん」
「でもしっかりしてて」
「うんうん」
「話しててもすごい苦にならなくて」
「うんうん」
「一定の距離を保てて、その中でお互いを深めあえる子が、いいねえ」
「うんうん…なるほど、あまり干渉してほしくないんだね!気を付けるよ!…それで、好きな人とかいるの?」
「…まあ、気になってる人なら、……すぐ近くに」
「同じ大学の子!?」
「い、いやあ、違うかな」
「バイト先の子とか!」
「それも違うし、どんどん離れていってる気がする」
「…近所のおばさん?」
「そんなわけないでしょ」
 ほら、予想通りだ。
「…そうだなあ、身近でいえば、名前ちゃん、とか」
 また冗談言って猿飛くんは!と言うと思ったのに、酒を飲んでいない名前ちゃんは急に顔を真っ赤にして俯いた。耳まで赤くなっていて、いや、あの、とどもりながら肩を縮めた。
 まさか、冗談で捉えるのだろうと思っていたのに。
 後悔はしていないが、恥ずかしさを感じてきて、一緒になって顔を赤く染める。俺は酔っているからと言い訳を作れるからいくらか余裕はあるが。

 俺は他人に深い心の内を見せるような性格ではない。真田の旦那のお人好しの性格を見てきたからなのか、違うのか、どちらも定かではない。
 いつでも人の為を思って行動する旦那にはいいことも起きれば悪いことも起きるので、それをやれやれと一緒になって褒められたり、時にはとばっちりを受けてきた。自分はヘラヘラとしているところを見せるのに慣れてしまったのだ、旦那といたから。本性を見せることは、絶対にない。今まで生きてきたなかで、すべてを曝け出したことは一度もない。旦那にもだ。
 それを目の前の彼女は簡単にやってのける。そして、俺をその気にさせることができる不思議な人格の持ち主だ。自分から告白したこともない。異性と付き合う時も、必ず女のほうから切り出してきた。別れ話をするときもだ。そして気を遣うのは決まって自分だった。

 今ここで抱き締めることだって、俺にしたら難易度ゼロのコマンドだろう。彼女が相手でなければ。名前ちゃんは天使のように繊細で、汚してしまったらもう二度と戻らない気がするのは俺だけなのかもしれない。俺にしかそう見えていないのかもしれない。
 俺が触れれば名前ちゃんは汚れてしまう。だけど汚してでもいいから触れたいと、そう思ってしまうのだ。
 初めてだった。俺がこう感じるのは初めてのことだった。
 彼女がどんなに心の内が汚くたって、偽りの自分を演じていたって、俺には、それが天使のように見えてしまうから仕方なのないことだ。
「そういうことは、あまり言わない方がいいよ」
「どうして?」
「勘違いする人、いると思う」
「…じゃあ勘違いしてもいいよ」
 やめてくれ。汚したくないんだ。