海が一番きれいなとき | ナノ


 朝、バタバタと支度してバタバタと家を出ていく俺とは対照的に、名前ちゃんはのんびりと支度してのんびりと家を出ていく。駅の階段からダッシュで人の間を割って、改札口を通って、ギリギリセーフで電車に乗るのが毎朝の恒例となっている。自分を驚いた眼差しで見られることはもう慣れっこだ。座席に座れることもあれば、つり革を掴むこともある。今日は座席に座れた。ガタンゴトンと電車の動く音と振動が伝わって、やっと深い息を吸う事ができた。流れていく景色は、緑と赤い屋根が入り混じった景色だった。
 名前ちゃんと俺の電車はまず、時間が違う。次に方面も違う。駅で一緒になることはまずない。先日のことを思い出すと、静かに鼓動をしていた心臓が激しく動き、これが恋だと気付くいたのは、キスした夜の、布団に入った頃だった。
 大学は、人通りが激しい駅が最寄りで、数十分歩いたところにあるデパートの角を曲がってまた数十分歩いたところに大学がある。駅にはたくさんの人がいて、外人もいればホームレスもいる。もちろんサラリーマンもいればOLもいる。中学生、高校生、大学生もいる。改札口を出たところに、決まって真田の旦那が腕を組んで燃え盛る太陽を見上げて俺のことを待っている姿もある。
「おはよう旦那」
 燃え盛る太陽を見上げていた目を向けて、返事をする旦那は、いつも目の前が緑になったり黒になったりして見えにくいものだな、とこぼしていた。こういう奴がよく大学に入れたと思う。そこも、旦那のいいところなのだが。


 遂に、勘の鋭い伊達は俺の見る度に「あの妄想話の続きはねえのか?」と言ってきて、仕舞いには肩を組んで紹介しろよ、とまで言ってくるようになった。最初はまったく気付かなかったくせに、いきなりどうしたのかと思ったが、名前ちゃんが来てからの自分の行動パターンは今までと極端すぎるものがありすぎて、そりゃあ気付かれるか、と諦めて、伊達を適当にあしらってその場をきり抜ける技を習得した。しかしもうそろそろ面と向かって言われる日も近いだろう。
 あれから俺と名前ちゃんの間ではなんの進展もなければ、そういった雰囲気が出来上がることもなかった。今まで通り、俺が我慢して、名前ちゃんがのほほんとご飯を食べて、布団に入って寝て、の毎日だった。押し倒して雰囲気を作る前に、名前ちゃんがそんな雰囲気を作らせないといった感じだ。それじゃああの時の不意打ちのキスはなんだったのかと思ってしまうほど、名前ちゃんは一切、このことに興味を示してこない。俺のエロ本を見つけたときも、AVを見つけたときも、見て見ぬふりをしていつもの笑顔を振りまいていた。
 俺も情けないことに、この笑顔に弱くて、笑顔が向けられると勢いを失って言いたいことも言えずに、一緒に笑いを合わせることが多くなっていった。
 研修期間も終わった時、俺は名前ちゃんと一ヶ月も同じ空間で過ごしていたことに気付く。洗面所に歯ブラシが二本あることも、お皿の数が増えたことも、マグカップが増えたことも、ゴミの量が増えたことも、名前ちゃんの匂いがこの一室に染みていることにも、どれも同時に気付いた。
 相変わらず俺にも名前ちゃんにも恋人ができる気配がなかった。どちらかがバイトで忙しいときは、料理も洗濯も洗い物も一人でこなしていくことに自然となっていて、「おかえり」と玄関の前で言う事も、自然と習慣づいていた。お互い、この関係で満足しているから恋人作らねえのかもしれなねーなー、なんて呑気なこと考えている間に、長曾我部に彼女ができていた。

「おい猿」
「なに?」
 二人きりになった。真田の旦那も長曾我部もバイトに出てしまった、帰りはこの二人になってしまったのだった。これは注意不足だったな、と反省して、どうか面倒なことにはなりませんように、と信じもしない神に向かって祈る。
「この間の妄想話、もっとよく聞かせてくれよ、」
 ニヤニヤ笑う伊達に、一言ペシャリと言ってやった。
「忘れたね」


 今日はお互いバイトも友達との約束がなくて、一緒に夕飯作りに取り掛かった。初めての共同作業ではないが、ここ最近バイトやらが忙しくて全然夕食を一緒のテーブルで食べることがなかったために、新鮮に思えてくる。ほとんど料理しているのは俺だったが、隣でおいしそうと騒ぎ立てる名前ちゃんを見ていると、もっと美味しいものを作ってやろうという気持ちが強くなり、いつもより気合いを入れて作ることができる、気がした。気がするだけだ。
 洒落たメニューは作れないが、名前ちゃんは笑顔でお皿を受け取り、美味しそうに料理を食べてくれるのがとても嬉しかった。作る料理にすべて「おいしい」と言って食べてくれる。以前、名前ちゃんにコックさんになれば?と言われたことがあり、その時は冗談半分で名前ちゃん専用のね、と言ったが、本当にそれになってもいいかもしれないと思い始めた。
 本当に、恋人同士で同棲しているようになってきた。ただ、そこには恋の文字もなければ、愛の文字も当然ない。
 そんな夜のことだった。体に重みを感じ、ぼやける視界で天井を見つめ黒い影を見つめていると、Tシャツの上から女の指が当てられた。驚いて目を魚のように開き、起き上がると、腹の上に乗っている名前ちゃんの姿が目に鮮明に映る。まだはっきりとしていない脳で、必死になってこの状況を看破しようと計算し、イメージを膨らませるが、目の前の女のせいでそれも難しくなって、脳を働かせることをやめた。
「猿飛くん」首に顔を埋め、キスマークをつけようとしているのか音を立てながら短いキスを始めた。どくんと下半身が反応し始めて、すぐに硬くなった。片手で自分の体を支えながら、もう片方の手で名前ちゃんの背中を撫でる。俺も名前ちゃんの首と鎖骨部分に顔を埋め、強く噛む。キスマークというよりも、歯型を付けたいと思った。
「猿飛、くん」抱き締め、そのまま押し倒した。俺の下で黒い目の輝かせながら、名前ちゃんは首元に手を持ってきてそのまま引き寄せ、あの日と同じキスをした。舌と舌が絡まり、俺が吸いつくキスをすれば名前ちゃんも同じように吸いつくキスをする。そしてまた舌を絡ませる。
「佐助くん」のしかかり、下半身に手を伸ばした。キスをしたまま、パンツに手を入れて、軽く膣をなぞり、陰核を摘むと、高い声で名前ちゃんは「あっ、」と喘いだ。喋らせないよう、声が漏れぬよう、一度離れた唇に噛みついて、息を呑みながら先程よりも激しく動き出していく。
「名前ちゃん、」
「さすけ、くっ、」
 腟の中に指を挿れた。しがみ付いてくる名前ちゃんの中はとても熱く、指を抜いていしまいそうになった。そして二本目の指も挿れていく。
 なぜこのような行動をとったのかは、俺にわかるはずもなく、考えたところで無駄なのだと悟った。ただ、言えることは、向こうからきてくれてラッキーだということだけだ。
 月明かりに照らされた名前ちゃんの頬は赤く染まっていた。きっと、俺も赤く染まっていることだろう。気まぐれな名前ちゃんの性欲に感謝しつつも、俺の我慢を踏みにじってくれた怒りでズボンを下ろしてトランクスも下ろした。
「佐助くん」
 彼女は微笑んでいた。