海が一番きれいなとき | ナノ


「んな漫画みてえな話あるわけねえだろ!少女漫画の読みすぎなんじゃねーの!」
 伊達なんかに言った俺が悪かった。とは言っても、例えを使ったので、実際自分の身に起きていることだとは言わなかった。机をバンバンと叩く伊達は、そんな漫画みてえな出来事が起きるんなら自慢してるぜ、と隣の長曾我部に話を振り、長曾我部も長曾我部で、いいねえ、と缶コーヒーを一気に飲み干しながら言った。真田の旦那だけは、笑わずに話を聞いてくれていた。
 そりゃあ伊達は女にも金にも住む場所にも困ったことはないだろう。何一つ不便なく暮らしてきたはずだ。起きれば隣に女がいることなんて日常茶飯事なんだろう。俺の現実に起こっている非現実的なことに涙を浮かべながら大声で笑うのは当たり前だ。
「例えばって言ったじゃないの。あーあ伊達のせいで気分がた落ちだよ」
「そんなに飢えてんならいい女紹介してやるぜ?」
「俺はそんな軽い男じゃないよ。」
「そんな妄想話を聞かせる時点で飢えてる証拠、女もいねえ猿にはとびっきりの女紹介してやっからよ。最近元気なかったしな。元気だせよ」
「いや、いい。俺より旦那に紹介してやってくれ」
「そっ、そのような不埒なことできるわけないだろう!」
「不埒か?あのねえ旦那、もうそろそろ旦那もね…」
 これ以上真田の旦那に言っても無駄だ…、こいつはやっぱり一生独身の童貞で生涯を全うしていくのだろう。顔がいいのに勿体ない。砂糖を入れたコーヒーをかき交ぜて、一口だけ喉に通す。今日は早く帰らないと名前ちゃんに申し訳ない。買い物にも行くって約束もしたし。
 伊達のバカにしていることが、友人の身に降りかかっているとは誰も想像がつかないようだった。俺だったらこの中の三人が例えを使って言い出した時点で怪しく思うだろうが、意外とこの三人は鈍感のようだ。
「んじゃ、俺は先に帰るとしますか」
「なんだ?もう帰るのか?」
「バイト。かけもちし始めたの。」
 鞄を持って、三人に手を振って別れの挨拶を告げる。三人は今後どんな話を展開していくのだろうか。俺の例え話なんかなかったことにされそうだ。もしかしたら、逆にネタにされているかもしれない。
 ただ何も考えず、電車の窓から見える景色を見て、人の行き交う交差点を歩いて、コンビニに群がる中坊を眺めて、駐車場に座って腕を組み合っている高校生男女の前を通って、じゃんけんで荷物持ちを決めている小学生に押されながら、気付けばアパートの前に立っていた。いつも学校が終われば、こうしてぼーっとして家路につくのが日課になっていた。今日なんか特にそうだ。なにもなかったはずなのに。
「ただいま」
 階段を上り、家の鍵を開け、扉を開けると、そこにはテレビを見ている名前ちゃんの後ろ姿があった。俺に気付いてから、おかえりなさい、と振り返り、天使のように輝く笑顔を振りまいた。
「おかえりなさい」
「…あれ、スーパーにでも行ったの?」
 キャリーバックの上に置いてあった近くのスーパーの袋の中には、名前ちゃんが今後必要になるものが入っていた。シャンプー、コンディショナー、トリートメント、タオル、歯ブラシ、などなど、こんなに大きな荷物持って帰るの大変だったでしょう、と隣に腰を下ろしながら訊いてみると、そんなことなかったよと手にハローワークを広げて答えてくれた。
「あ、ねえやっぱり近くでバイトすることにした。」
 俺は当然この近くでするんだとばかり思っていたから、言葉を詰まらせながら、そのほうがいいよと言って名前ちゃんの様子を窺う。近くのほっともっとで働こうと思っているらしい。
「はあ」思わず溜め息が漏れる。
「…疲れてるの?」
「え……あ、ま、まあね、疲れてないっていったらうそになるけど」
 そうして名前ちゃんは口を固く閉じた。
 こりゃまた面倒なことになった。名前ちゃんはきっと自分がここに居候してきて、それに俺が疲れていると思っているのだろう。今にも男と女だもんね、と言い出してしまいそうだった。それは本当に勘弁だった。
 態勢を立て直し、大学でいろいろとあったことを口から零れるように言うと、名前ちゃんは眉を八の字にして困ったように笑った。溝ができてしまった。会って間もないのに、もうこんなにギクシャクした関係になってしまったのが、今日一番の溜め息どころだと思った。

「や、やっぱり、そうだよね!わたしが男の人の家に上がり込むの、おかしいよね!恋人でもないし、顔見知りでもないのに!」
 胸が張り裂けそうになる。違うんだ。嫌じゃないんだ。
 まるで初恋でもしているかのように胸が苦しい。名前ちゃんを見ていられないけど、見ていたい。
「なにそんなこと気にしてんのさ。」
 精一杯笑ったつもりだったが、これは更に溝を深めることになったなあ、と後悔した。





 名前ちゃんのバイトも受かり、研修期間に突入していた。そして俺は明後日テストがある。夜は畳みの襖を閉めて、小さなライトで極力眩しくないように勉強をする。別にいい就職先を希望しているわけでもないけれど、中学、高校に染みついてしまったプライドが、復習をしないことを許さないでいる。黙々と勉強を進め、気付けば一時に短い針は向けられていた。静かな部屋に、秒を刻む音が響き渡る。一区切りして、何か温かいものでも飲んで寝ようかと立ち上がった。
「勉強?」
 声のするほうに急いで顔を向けると、襖をあけてこちらを見ている名前ちゃんは、なにかいれようかと立ち上がった。
「いや、いいよ」
「でも疲れてない?ほら、座って座って」
 自分よりも倍ある身長の俺の肩を押して、ソファーに座らせる。「ミルクティーでいいかな」と戸棚にある、俺専用のマグカップと、名前ちゃん専用のマグカップがぶつかりあう音がした。
「ごめん、明るかった?」
「明るさは気にならなかったけど、猿飛くんがなにかブツブツ独り言いってて、それが気になったかな」
 クスクスと笑う名前ちゃんの表情は暗くてよく見えなかったが、いつもの自然な顔をしていたように見えた。持っていたシャーペンを置き、ソファーの上の飛んでティーパックを出している名前ちゃんの隣についた。
「いつもよりミルク多めにいれてみる?糖分って大事みたいだよ」
「そんなに甘いものすきじゃないんだけどな…まあ、名前ちゃんが言うならそうしてみよっかな」
 粉末のミルクをスプーンで掬い、ダージリンの中に二杯入れられた。名前ちゃんも自分の紅茶に、ミルクを三杯入れ、かき交ぜる。旦那と話が合いそうだ。甘党の旦那と、名前ちゃん。
「甘い?」
「俺からしたら、甘いかな?名前ちゃんからすれば甘くないかもしれないけど。」
「二杯で甘いんなら、三杯だとすごく甘くて飲めなくなるかもね」
「そうかもしれないね」
 もう一口、甘いミルクティーを飲もうとマグカップの持った手を上げようとすると、その手は目の前にいた名前ちゃんによって止められた。顔を上げる前に、名前ちゃんの唇が、自身の唇と重なり合い、舌の侵入を許した。マグカップの置かれる音と、肩に置かれた手は名前ちゃんのものだ。
「甘い?」
「そりゃ…ものすごく」
 満足気に笑った名前ちゃんは、マグカップを机の上に残したまま部屋へと帰って行った。その片付けをするのは俺になるのだが、そんなこと一切気にならないほどに、今の行為にすべてを持っていかれていた。
 ほんの遊び心でしたと、信じたい。