海が一番きれいなとき | ナノ


 彼女との共同生活が本日付で始まった。彼女はこの近くの大学に入学し、武田のおっさんの手配で俺の家で一緒に住むことになった。学校は普通の大学らしい。何かになりたいのかと訊いたら、少し恥ずかしそうな顔をし、淹れた紅茶を一口、一口とちびちび飲みながら、OL、とだけ呟いた。どうやら彼女は夢を持つタイプではなく、もっと現実をみるタイプらしい。
 風呂で体を温めた名前ちゃんは、髪の毛の水分を取りながら、キャリーバッグに入っているものを取り出し、「あ」と何かに気付いたように、この部屋に響くくらいの声を上げる。
「バイト先見つけないと。」
 名前ちゃんが持っていたのはハローワークで、バイト先を見つけると言った。どこにしようかなあ、時給高いところがいいなあ、なんて言いながら、その場でハローワークをパラパラと捲る。
 もっとこっちにくればいいのに。
 きっと遠慮しているのだろう。俺が声をかければ、名前ちゃんはこちらに寄って来るに違いない。
 あ、のさあ。こっちきて座ったら?そこ地べたじゃないの。机でみなよ、ペンもあるし、チョコクロワッサンもあるよ。
 なあんて初対面の人に言えるほど、温厚で、朗らかな性格ではなかった。いつも、相手に一枚、二枚、壁を作って、一歩下がって対応する。そうして、いつものヘラヘラ笑っていられる自分がつくれるのだ。
 しかし声をかけないと、彼女はずっとあのままだろう。
「近くのコンビニとかでいいんじゃない?」
 やっと出た言葉がこれだったなんて。彼女はこちらを向いて、うーん、と少し悩んだあと、そしたらコンビニ行きづらくなっちゃうからなあ、と小さな天使のような笑顔で返事をしてくれた。
 あ、かわいい。
「別に、名前ちゃんが行かなくても、俺がいけばいい話じゃないの。」
「緊急時とかどうするの?」
「緊急時って?」
「猿飛くんがいない時とか。」
「ああ…それは、違うコンビニ行くとか。」
「でもここら辺にコンビニなんてあったかなあ。」
「ここら結構あるよ。セブンにローソン、ミニストップもある。ホットモットもあるしね。スーパーもあるし。そこのスーパーやっすいんだ。」
「それじゃあ候補たくさんだね、ここらへんにしようかな、家から近い方がいいよね。」
 あ、でも俺ったらここらへんでバイトしてるわけじゃないんだけどね。大学の近くでしてるんだ。
 セブンにしようかなあ、ローソンにしようかなあ、ミニストップもいいよね、アイスとか食べれるかな。スーパーの品だしとかもやってみたいんだよなあ。名前ちゃんは働くことが好きなのだろうか。それはそれは、嬉しそうに目を輝かせていうもんだから、誰だってそう思うだろう。思わない筈がない。
「あ、なんか、不具合あったら言ってください。その、あれやれこれやれ、とか気にしないし、むしろ言ってもらったほうが、いいなあって思ったり…」
「そ、そう?でも、ほとんど俺がやろうとは思ってるんだけど…。」
「えっ、だっ、でも、」
「それに、名前ちゃんはここに来たばかりなんだし、色々とわからないこともあるでしょ?だから、慣れてからでいいよ。そしたら俺も頼んだりするだろうし。バイトで遅くなる時は買い弁かなんかしてもらえばいいしさ。」
 あ、そっか、と言う風な名前ちゃんの顔が、やっぱり天使みたいで可愛い。一件普通の女の子なんだけどなあ。やっぱり、こうして二人きりでいるからなのだろうか。
 一人で抜くときはどうしようか。
 エロ本見る時はどうしようか。
 AV見る時はどうしようか。
 思いつくことは、どれも如何わしいもので、真田の旦那に相談したら、破廉恥であるぞ佐助ぇえ!と一喝されてしまいそうなものだった。
 多分、武田のおっさんは俺の仕送りの他に、名前ちゃんへの仕送りも送ってくることだろう。おっさんじゃなくても、母親からでも。金持ちな家だから、かなりの額を送ってくる。それに頼ってばかりじゃあなあ、とバイトをしているわけだが、色々と、買うものもあるだろうし、今回は仕送りに頼るか。
「猿飛くんってクロスワード好きなの?」
「え?いや別に、暇潰し程度に、」
「じゃあ数独とか興味ある?」
「数独ならたまにやるねえ。」
「本当?じゃあこれ手伝ってくれると、嬉しいな…!全然わかんないの!」
 名前ちゃんがキャリーバッグの中から数独の本を出してきた。あのバッグは四次元ポケットらしい。頼めばどこでもドアとかあんきパンとか、出してくれるドラえもんだったら、もっと違う意味で喜んだんだけど。
「どれ?」
「これなんだけど。」
 うわ、近い。めっちゃ近い。
 風呂上がりだから、石鹸の良い香りもする。男もののボディーソープなのに、女ものの香りがする。甘いような、ふんわりしているような香りだ。髪の毛も少し濡れている。いけないだろ、これ。とわかってはいるものの、目線は数独ではなく、彼女の鎖骨へいってしまう。
「ここのね、」
「う、うん。」
 念を押すように名前ちゃんは数字に指を差す。
「……聞いてる?」
「もちろん、聞いてるに決まってんでしょ。ほら、ちゃんと耳もあるから。」
「…耳ダンボにして聞いてね!」
「はいはい、お耳をダンボっと」
 やっべえ。バレたかな。
 これだから、女と二人きりってのは困る。しかも自分の家で、二人きり。今日が初対面なのに。俺ってこんなに軽い男だっけなあ。 
 名前ちゃんと一緒に数独を悩みながら、そういえば、名前ちゃんって、ちょっと、オーラが違うんだよなあ。と気付いた。媚を売らない、素朴で自然的なオーラ。
「ここはこうじゃない?」
「ああ!そうだ!解けそう!ありがとう猿飛くん!」
「どういたしまして。」
 いつの間にか俺のペンを持って解き始めている名前ちゃんの背中を見つめて、いつまで居てくれんのかな、なんて、ちっちゃな事を気にした。