海が一番きれいなとき | ナノ


 外は横殴りの雨だった。一息にと淹れた紅茶を飲みながら、無料冊子の17ページにあるクロスワードを解きながらチョコクロワッサンを食べる。最近この無料冊子にあるクロスワードにハマっていて、暇な時はいつもこれに熱中している。
 大学三年目の春、バイトもなにもない時間をもっと有効的に活用できることができたらいいのに。隣に置いてあるチョコクロワッサンの袋と携帯を見て、真田の旦那に連絡を入れようと携帯を手に取った。メールが何件か来ていてちょっと期待したが、どれもメールマガジンだった。
 まあ、こんな雨だし、遊びの誘いなんて普通ねえよな。
 そう思うと真田の旦那にも連絡が入れずらい。

 真田の旦那とは小さい頃からの付き合いだった。小さい頃、というよりも、家族といったほうが、いいのかもしれない。
 幼い頃に両親が死に、親の付き合いの長い武田という家に引き取られた。人柄の良い、でかい図体を持った、武田のおっさんは、俺のほかにも血の繋がらない子どもを引き取っていて、そこに、真田の旦那がいた。同じ歳だった。小学校中学校、高校、大学まで一緒の学校に通っている真田の旦那は、友人というよりも、家族に近い。この歳になって、一人暮らしもできないようじゃいけないだろう、という武田のおっさんの言う事もあって、俺と旦那は別々に暮らしている。家もそう近くはない。駅を六つほど過ぎないと会えない距離だが、小さい頃から嫌ってほど顔を合わせていたからか、寂しいとは思わなかった。むしろ、この方が自分にとっても好都合だった。
 だって、俺だって、男なんだぜ。
 なんて言ったって彼女がいないんだから、自分に嘲笑うように言ったって、仕方ない。旦那にだって言えない。

 隣の部屋のおばちゃんがくれた煮物を冷蔵庫から取り出し、貧相なアパートの暖かみを今更になってありがたく思う。隣のおばちゃんの煮物は今まで生きてきたなかで、一番うまいといえるほどのものだった。
 雨だから、外に出るにも出れないし、何をしようにも室内でできることといったら、クロスワードを解くか、テレビを見るか、ゲームをするか、寝ることしかないだろう。テレビといっても、休日の昼間にやっている番組はイマイチ面白さがない気がする。特に土曜日なんかは。ゲームっていったって、もうやり飽きたし、新しいゲームを買おうにもこの雨だし。クロスワードももうすぐで終わりそうで、眠気もない。携帯を弄るにも、やることも見るものもない。
「つっまんねえ…」
 録画したままのたまったアニメでも見るか。どれも深夜にやってるアニメで、友人に勧められたものだから、休み明けの話題のひとつにもなるだろう。武田のおっさんにプレゼントされた液晶テレビと、DVDプレイヤーのスイッチを付ける。そういえば何日もためていたっけ。そういえば二か月前に二話を見終わったところで終わっていた気がする。
 リモコンのスイッチを押しながら、たまりにたまったアニメのタイトルを一番古いものまで押していると、突然携帯が鳴った。そして、チャイムも鳴った。
 もしかして旦那かも、と思い、携帯の通話ボタンを押しながら、玄関のカギを開け、ドアを押した。
「あ、もしもし猿飛ですけど、あ、おっさっ……」
「こ…こんにちは!電話があったと思うんですけど、猿飛さんですよね?わたし、苗字名前です。」
「え…、あ。…え?」
 目の前の小柄な女の子と、武田のおっさんの声が重なって聞こえないが、この状況を説明してくれる電話内容だった。
 ――今日、儂の姉の娘が居候にやってくるのでな、佐助、頼むぞ。
 おいおい今それ言っちゃうんだ。もっと早く連絡入れて、ほしかったよ、おっさん。
「…?あれ、もしかして間違えた…!?うわっあのっ…ご、ごめんなさい!名字が猿飛さんだったので間違えました…!」
「あ…あ、あーえっと、うん、あの、そうだよ。猿飛です。猿飛佐助です。」
「あーよかった、信玄のおじさんから連絡入ってなかったのかと思いました!あ、これつまらないものですが、母が持って行けって!」
 女の子、苗字名前に渡されたのは東京バナナとかかれた箱。「おいしいんですよ、これ」ああ、うん、よく食べるよこれ。おいしいよね。たくさん頭に入ってくる情報に、頭をませる。まず、居候って、なんだ、おっさん。どういうことで居候なんてさせるわけだ?
「おっさん、まず、なんで居候?」
「上京したばかりでな、家が見つかるまで居候させてやってくれんか。」
「真田の旦那だっているじゃないか!」
「………。」
「…あーうん、ですよね、旦那、ですもんね。」
 旦那の、破廉恥極まりない!の台詞が頭の中で流れた。これは、たしかに仕方のないことかもしれないけど。俺と二人きりで、本当に、大丈夫なのか?特に俺とか。一つ屋根の下、男の女が一緒に暮らすのって、しかも恋人同士でもないのに、やばくないか?
 女の子は俺とおっさんの会話を聞いたらしく、おじさん連絡今入れたんですか、と少し驚いた様子で言った。ああ、気にしなくていいよ。と、女の子を安心させようと、自然に笑う。
「まあ、入りなよ。」
「どうも!」
 キャリーバッグを引きながら、女の子は玄関に入る。パンプス、というものを脱いで、キャリーバッグを持ちあげる。そのキャリーバッグを奪い、開いている部屋がないから、部屋の隅に置いた。
 貧相なアパート暮らしに満足していたわけだけど、こういう状況になると、そう、ありがたさを感じなくなるな。
 小さな俺の部屋にはキッチン、リビング、畳み、風呂、脱衣所、トイレ、といったものしかない。部屋がないかわりに、リビングやキッチンのスペースは、結構大きいだろう。
「狭いけど…いい、かな。」
「あ!全然!居候させてもらう身なのに我が儘なんて言えないもん!というか、ありがとう、本当は嫌でしょう。」
 いや、嫌ってわけではないけど、突然だったからなあ。
「別に気にしてないけど、名前、ちゃんはいいの?ほんとに。部屋もないのにさ。」
「ううん、ほんとにいいの、居候させてもらえるだけでいいんだ。」
「これから色々と気を遣わせちゃうこともたくさんあるけど、とりあえずは我慢してくれると嬉しいかな。」
「こちらこそごめんね猿飛くん」
 そういえば、外は雨だったな。女の子、名前ちゃんをよく見ると、髪が雨で濡れていて服もかなり濡れていた。こんな雨だったんだから濡れてしまうのはしょうがないだろう。
「濡れたままだと風邪ひくし、お風呂沸かすから入る?」
 ひとつ提案をすると、名前ちゃんは、「あっそうだね、濡れてるもんね。」と、頬を赤く染めながら申し訳なさそうに眉を下げた。
 そうか。これからしばらく、飯も、風呂も、寝る時も、時間を共有するわけだ。
「じゃあ風呂沸かしてくるから…適当に座ってていいよ。これテレビのリモコンね。」
 名前ちゃんにリモコンを渡し、風呂場に入って急いでスポンジを動かし、風呂を沸かすスイッチを入れる。洗面所も汚い気がして、適当に水を流す。タオルも新しいものに取り換えて、マットレスも新しいのに取り換えた。鏡に水滴が付いていてそれも拭く。洗濯機のふたも閉める。よし完璧だ。
 リビングに戻ると、リモコンを持ったままの名前ちゃんが立っていて、どうしたものかと声をかける。
「服濡れてて座りにくくて…。」
「あっ、気にしなくていいよ。乾くだろうし。」
「…あと、時間取らせちゃってごめん、これ、やり途中だったんでしょ?」
 名前ちゃんが指差した先には食べかけのチョコクロワッサンと、シャーペンと、クロスワードのページが開かれていた。一番最初に片付けなければいけないものを、忘れてしまっていたらしい。