海が一番きれいなとき | ナノ


 白い雪に埋もれた小さな丸い背中が公園のベンチにあった。近付いて声をかけると、その小さな背中はピクリと動いた後、更に背中は丸みを帯びていった。
 浮気だって誰しもするものだ。他の異性に興味を湧くのもよくあることだ。だから気にすることはない。それに、本意じゃないんだろ。そう言うと、丸い背中の白い雪は更に積もり、丸い背中は震え、濡れた靴下に折り曲げる足の指が、とても見ていられなくて、つい目を逸らしてしまった。
 丸い背中が、もし自分が他の子にされたらどうかと訊かれ、思わず言葉を噤み、拳を作った。丸い背中は真っ赤になった指を目元に持っていき、綺麗に横に流していく。
「ごめんなさい」
 ラブラブ、とまではいかなかったのかもしれない。一方的に自分が空回りしていたことに気が付いてはいた。それに、名前ちゃんが、ペースを合わせてくれる、という感じだったことも気が付いていた。それでもこの関係が丁度いいと思っていたから不満も、文句も、一切出てこなかった。それにこの関係を、俺だけじゃなくて名前ちゃんも満足してくれていたのだ。
「それから、ずっと言おうと思ってたことがあって」
「え?」
「わたし、アパート借りて、そこに住もうと思ってるんだ。」
 ハッとして拳を解いた。
「どうして」
「もう迷惑かけられない。それに、わたしがこうしたいって思ったことだから」
「石田のせいか」
「ちがう」
「それじゃあなんで」
 名前ちゃんは口を閉じ、目だけをこちらに向けた。俺の言葉を待っているような、そんな瞳だった。俺はどうしろっていうんだ。たかが強姦されたぐらいで、どうしてこんなことになる。されどとも言うが、こんなことで、離れてほしくない。そんなの俺がどうにかしてやる。のに、言葉が、出なかった。
 そっと肩に手を乗せて、頭を腹に押し付けてやる。身体すべてが冷えていて、拳を解いてやり、手を握った。上着さえ着ていない俺の身体は当然冷え切っている。手だって、足だって、顔だって、腕だって、すべてが冷えている。名前ちゃんのように、冷えている。
「寒いだろ」
 帰ろうか。
 帰って暖かいココアでも飲んで、
 一緒にこたつで暖まろうか。
 一緒にゲームもしようか。
 帰って、手を握ろうか。

「…早く、帰ろうぜ」
 名前ちゃんは勢いよく顔を上げて、口元を震わして、指を握り返してきて、立ちあがって、肩に顔を沈めた。怒ってないのかと訊いてきて、それに怒ってないよと返すと、ずっと一緒に居てもいいのかと訊いてきて、それにもちろんと答えると、ずっと好きでいてくれるかと訊いてきたので、それに当たり前の事訊かないでくんない、と返すと、名前ちゃんの手が暖かくなった。
 ごめんなさい。ごめんなさい。わたしの我が儘でこんなことになってごめんなさい。わたしの注意不足でごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 そんなに謝らなくてもいいよ。その時の場面が想像できてしまうから、もういいよ。過ぎたことは後悔したって遅いんだから、もういいよ。だから俺は気にしないことにするから、名前ちゃんも気にしなくていいんだって。
 そっと頭を撫でると、名前ちゃんは手を離して背中に両腕を回した。片腕を名前ちゃんの背中に回して、頭を撫でていた手を肩に乗せ、少しだけ押して、顔を近づけて、キスをした。
「肉まんでも、買おうか」