海が一番きれいなとき | ナノ


 季節は巡る。夏だと思っていたらもうあっという間に冬になっていた。
 俺と名前ちゃんの距離は未だ変わらなかった。変わるはずもないだろう。一緒に同棲しているんだから、当たり前だ。
 名前ちゃんはいつまでたっても可愛くて優しい女の子だった。あのバイク男の石田くんと遊んだり、伊達と夜遅くまで電話をしていたり、バイト先の高校二年生の男の子と彼女のプレゼントを買いに行って、それが名前ちゃんに贈られたり。まあ、相手の気持ちもわからなくはない。名前ちゃんは不思議な子だからだ。キスをして、セックスをして、抱き締めあって、またキスをするのも、今までと同じ。互いに強請り強請わなかったりも、変わりない。
 色違いのマフラーをして家に出るのも、この時期の日課だった。本当にたまに石田がアパートの下までやってくる事もあったが、俺があしらえばそこで言い合いが始まり、喧嘩の根本的なわけである名前ちゃんが止めるということも、やはりよく考えればいつものことだった。駅まで手を繋いで、白い息を吐きながら、どうでもいい話を交わし駅で別れる。
 ただ、たまに名前ちゃんは沈んだ表情で、死んだような目をして帰ってくることがある。俺がおかえりと言っても、目を逸らしてただいまということが。理由を訊いても首を横に振るばかりで。そんな日の次の朝はけろっとしていて、手を繋いで駅に向かうのだ。
「猿飛くん行こうよ」
 ブーツを履いて、玄関のドアを開けて俺を待つ名前ちゃんは鼻を赤くしていた。
「寒いからドア閉めて」
「こうでもしないとノロノロするでしょっ」
「したことある?」
「まさに今じゃん」
「あー、はいはい。わかったわかった」
 鞄を肩にかけてスニーカーを履き、名前ちゃんの手に飛びついた。しっかりと握られる女の子特有のやわらかい指は、俺をいつも包み込んでくれる優しい手だ。
 名前ちゃんはいつまでたっても不思議な子だった。表情が豊かで飽きない。たまに喧嘩だってするけど、気づいたら仲直りしてる。幸せな家族像も、実はできている。もうそのようなもんだけどなあ。と思いながらも、話を切り出せないでいるのも、自分の心の余裕がないからだった。

 冬の季節が本格的に始動した今日、名前ちゃんが深夜になって帰ってきた。雪が降っていたから、いつものように寒いの一言では済まないくらいの寒さだったはずだ。手も鼻も足も真っ赤になっていて、ゲームをしていた俺は半分の驚きと、半分の怒りで名前ちゃんを出迎えた。
「なんで連絡しなかったの?」
 返事はない。いつものように首を横に振舞えの前兆といった形であるから、その行動におかしいとは思わなかったが、雰囲気にはおかしいと思い、頭に付いている雪を掃ってやりながら、もう一度同じ事を訊くと、名前ちゃんの口元が震え、俺の方に抱きついてきた。肩が震えていて嗚咽も聞こえてくる。
「なんか、あったのか」
 嗚咽での返事はわかってはいたが、それじゃあ状況も確認できない。立っているのも難なので、リビングまで手を引いてソファーに座らせた。名前ちゃんが落ち着くまで背中を擦りながらじっと言葉を待つ。
「ごめん、なさい」
 ごめんなさい。ごめんなさい。と名前ちゃんの口からはその言葉しか出なかった。うん、とも言えず、ただそれを黙って聞いているしかない俺は、次の言葉を待つ。ゲームの待機画面の音が妙にうるさく感じた。テレビ自体を消そうとリモコンに手を伸ばした瞬間、隣にいた名前ちゃんが立ち上がって靴も履かないまま外に飛び出した。一瞬の出来事で、反応に遅れた俺はハッとしてスニーカーを履き急いで後を追う。上着も、色違いのマフラーも巻かないままで。
 辺りは白銀だった。しんしんと降る雪の中に、見慣れたバイクがあり、階段を下りてみると、インナーシールドがよく目立つヘルメットを被った石田が、いた。まさか近くに名前ちゃんがいるのかと思ったが、そのような姿はない。
「……一体何の用?」
「…名前の忘れ物だ。ベッドに置きっぱなしだった。」
「……え?」
 石田の表情は、いつも通りの気に食わない目と口をして俺を見ていた。ベッドという単語に、一気に頭が真っ白になり、耳鳴りが鳴り、目の前は白くなった。こんなことをしている暇なんてないのに、こんな奴の言葉に耳を向けている状況じゃ、ないのに。
「どういうことだ」
「そういうことだ」
「俺ってば、」
「女を組み敷くことさえできれば後は一時に身を任せてしまうものだろう。所詮は男と女ということだ。」
「……浮気は、必ずするもんだろ」
「まあ…そうだろうな」
 ヘルメットを外し、雪に負けない白い肌を出した石田は、ポケットから名前ちゃんの携帯を出し、俺の胸に突き付けた。こいつのせいで名前ちゃんはあんなに、あんなことになったのか。
 名前ちゃんが石田のせいで家から抜け出したことを伝えると、石田は短く笑い、良い様だ、と鼻を赤くしながら言った。名前ちゃんも鼻の頭を真っ赤にして、泣いてたっけなあ。雪の溶けた水がスニーカーに入りこんできて、名前ちゃんが靴下のまま外に出て行ったことも、思い出す。
「私はお前に負けているとも、負けたとも思っていない。」
「あっ、そう。」
「この件も悪いとは、…思っていない。」
「つまり強姦したと」
 顔を横に逸らした石田は、数分間そのままだった。こんな事してる場合じゃあないのに。
「…帰れよ」
「……名前は、今いないのか」
「帰れ」
「…どこにいるかは、」
「帰れって言ってんだ!」
 顔を背けていた石田はピクリと動いてこちらを向いた。とても「申し訳ない」という表情を、何故俺なんかに見せるんだ。水が完全に俺の足を冷たくしていく。靴を履いているのにこんなにもヒリヒリとした痛みが足の指までに伝わっていくということは、名前ちゃんはもっと痛いってことだ。
 石田の薄い銀色の髪の毛にも雪は積もっていく。バイクにも。肩にも。ヘルメットにも。
「もう、いいだろ」
 今度は俺が顔を背ける番だった。
「もう帰れよ。お前がいたら、名前ちゃんが帰ってこれないだろ。」
 そう言うと、石田はヘルメットを被り、聞き取れない小さな声で何かを一言二言、白い雪に向かって呟き、バイクのエンジンをかけた。聞き取れなかったんじゃあ、伝えるものも伝えられないだろう。足の指はもう感覚がない。痛い。心も、痛い。